テキスト | ナノ

ときたま、ふとした瞬間に「老い」を感じることがある。例えば、コーヒーをブラックで飲むようになったとき。昔は、あんな苦いものに金払うだなんて馬鹿だと思っていたのに、今は百円玉を二枚も手放して飲んでいる。馬鹿だとは、もう思わない。老けたな、と、思う。

俺はもともと怠惰な人間である。サボれるならサボりたいし、頑張りたくない。どこぞののびのび太のようにずっと寝てたいとかそんなことは思っていないが、目に見える努力はしたくなかった。あの人努力家だよねー、なんて言われるくらいならマジでしない方がマシだ。幸運なことに、勉強もスポーツも特別なことはしなくてもそれなりにできたから、この性格を直したいと思ったことはない。楽な方へ楽な方へ。まあ、人間なんてそんなもんだろ。

「あー、疲れた」

半日近く張り付いていたPCのデータを保存して電源を落とす。大きく伸びをすると、体中の骨が軽く鳴って気持ちいい。昔から、この感覚が好きだった。

「おい、帰んぞ」

俺の隣で突っ伏す女の華奢な肩をつつく。もぞ、と動いただけでうんともすんとも言わない。なにしろ、こいつの寝起きの悪さは折り紙付きである。あっさり起きた試しなんか一回もねえし。
ひとまず新しいコーヒーを二つ煎れて一つをやつのデスク、つまり俺の隣に置いた。ごちゃごちゃとものが置かれてあるそこは俺のと比べて乱雑で、そういえば、高校時代からこいつのロッカーの中は未開の地だった。相変わらずである。めんどくせえなと思いながら、ペン先が出たままのボールペンやらを一瞬オブジェと見間違うデザインのペン立てにさす。もちろん、ペン先の収納も忘れない。

「圭介も大概神経質だよね」
「…起きてたのかよ」
「匂い」

机に突っ伏したまま顔だけを俺の方に向ける体勢はなかなか滑稽で、オジギ草を連想させた。でもこいつはオジギ草ってよりキンモクセイかなんかか。もっと丈が長くて、ひょろっとした、花。

「お前でも匂いで起きんのか」
「まあ、好きだし」

俺はこいつとずいぶんと長い付き合いだが、まさか、そんなにコーヒー好きだとは知らなかった。苦いからいやだとミルクをどばどばと入れて砂糖の塊にしてから飲むイメージばかりが頭に残って、忘れてたのか。…いやでもあの飲み方はねえだろ。

「今何時?」
「朝5時」
「マジで?」
「ガチ」
「うっわ人生初の朝帰りが会社からかー」
「ざまあ」
「圭介もじゃん」
「俺は大学んときレポート終わんなすぎて研究室泊まったから人生初じゃねえし」

たいして変わんないよ、と机に右頬をぴったりつけたまま笑うので、俺の机までガタガタ揺れた。零れそうなコーヒーに慌てて口をつける。あ、やっぱり。

「俺ブラック好きなんだけど」
「知ってる」
「お前とこうしてるときに飲むと、苦く感じるんだよな」
「普段は?」
「昔は思ってた。今は全く」
「それ多分アレだ、わたしっていう存在が甘すぎて、相対的に苦く感じるんだって」

うわあ黙ってー、と笑い、クソ苦いブラックを喉の奥の方に押し込んで無理矢理飲み込む。新しいのなんて煎れんじゃなかった、と今更後悔した。このどす黒い飲み物を、ヘラヘラしながら俺を眺めるこいつにいますぐかけてやりたい衝動に駆られる。

「高校んときに戻んじゃないの」
「何が?」
「わたしのそばで飲むコーヒー」

机の上に置いた砂糖の塊をごくごくと喉を鳴らして飲みながらやつが言った。

「社会人ってさ、やっぱ、アレじゃん、違うじゃん、あの頃とは」
「まあ、」
「わたしだって戻れるなら戻りたいし」
「サッカーもしばらくやってねえなあ」
「同じなんだって、圭介もわたしも。だから苦いんだよ、それ。大人の象徴みたいなもんじゃん?」

ついさっきまで中身の詰まっていた俺のマグカップを爪弾いた。かつん、と軽く音が鳴る。なるほど。どうやら俺はまだまだ青くさいガキで、自由だったあの頃に戻りたいと、これまた青くさいことを思っているようだった。なのに無理してブラックなんか飲んじゃってさあ、とワイシャツの胸ポケットからのど飴を取り出して俺に差し出す。喉に優しいみかん味!と書かれたそれは、お前にはこれがお似合いだと言われているようで、なんだか腹立たしい。しかも何か中の飴べたべただし、これだだお前が食いたくなかっただけだろ。

「なあ、今度みんな集めてサッカーしねえ?」

べたついた飴を引き出しの一番上、金庫の鍵の隣に置く。今度また、今日みたいに疲れた日に食べよう、と思った。口の中がコーヒー塗れの今食べてしまうのはなんだかもったいない。

「サッカーって、どこで」
「そんなもん河川敷に決まってんだろ、立川の」
「…よし乗った」

パン、と小気味いいを立てて机を叩いてやつの方へ向き合い、久しぶりに帰ることになる地元に思いを馳せる。みんなは元気だろうか、とか、あの店はまだやってんのか、とかしょうもないことばかりが気掛かりで、やっぱり俺は、なかなか老けたらしい。年甲斐もなくわくわくしていた。

「というかさ、」
「なんだよ、バスケならやんねえぞ」
「違うって。さっきの、匂いで起きたって話」
「ああ、」
「あれ、コーヒーの匂いじゃないから」

はあ?と首を傾げれば、あなた、と指をさされる。

「分かるでしょ」

ふい、と顔を逸らしながら言われて、あ、とすぐに気付けたあたり、意外と俺もまだまだ若いかもな、なんて。



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20111020



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