テキスト | ナノ

部屋の隅っこ、西日の当たらない棚の上、薄暗いそこにそれは置かれている。幼い頃、誕生日に姉からもらったドール人形。年子である姉の遊び相手であったものを、俺がねだって無理やりもらったものだ。くるくるウェーブした金髪にスラリとした8等身は一目で外国人だとわかるけれど、当時の俺は彼女に「なでしこ」と古風な名前をつけた。なんて可愛いんや。なでしこ。俺のなでしこ。

「晩御飯やで。今日は自分の好きなシチューや」

自室の隣にあたる、和室の鍵を開ける。オレンジ色の電球がやわく光っていた。いつもは真っ暗のはずなのに、珍しい。

「明かり、全部つけてもええのに」

いびつな形の部屋の中央にあるダイニングテーブルもどきに一人分のシチューを置く。ついさっきまでぐつぐつ煮だっていたそれはまだ熱いけれど、ふうふうと冷ましながら食べる彼女を見ているのが好きだから、その方がいい。俺がふうふうしてあげて食べさせるのもいい。

「…どうしたん?食べへんの?」

彼女専用のスプーンを手にとろうともしないだなんて、腹でも痛いんかな。けれど、ここ最近食べさせたものを思いだしてみても心当たりはない。隠し味をいれて彼女好みにしたシチューからあがる湯気の向こうで、彼女が俺の名前を呼んだ。

「もうやめよう」
「え、」
「こんなことしてても、どうにもならないよ」

椅子の背もたれによりかかっていた体をめんどくさそうに起こすと、彼女はそのまま部屋の隅へと歩いていった。部屋の隅っこ、西日の当たらない、棚。

「自分は、自分は俺のことが嫌いか?」

黙ったままの彼女は、まるで俺の知らない人のようだった。眠たげな目とふわふわした髪の毛はそのままだけれど、すべすべで触り心地のよかった肌がかさかさと乾燥している。せや、クリーム塗ってあげな。

「これ、捨てて」

すこし細くなった彼女の手が「なでしこ」を掴む。あ、と声をあげると同時に彼女は「なでしこ」をごみ箱に思いっきり投げ入れた。ぼすん、鈍い音。脳みその端でその様子を見ていた俺の視界が二重にぼやける。まるで、彼女が二人いるみたいだ。
こんなものにいつまでも執着してるから、おかしくなるんだよ。吐き捨てた彼女の顔は真っ白で、たった今彼女が乱暴にごみ箱へつっこんだばかりの白人の人形を思いださせた。可哀相ななでしこ。

「わたしは蔵ノ介の人形にはなれない」
「自分は人形とちゃうよ」
「でも蔵ノ介はわたしにそれを望んでる、あの子みたいに」
「あの子?なでしこ?」
「そう、」
「せやけど、なでしこは俺の一番大切な人形やん。なでしこはもともと人形やろ。人間の自分とはちゃうよ」
「同じだよ、蔵ノ介。同じなんだよ」

いい加減目覚ましてよ、お願いだから。そう言って彼女は俺をゆっくりと抱きしめると、幼子にするようによしよしと頭を撫でた。そういえば、昔、蔵ノ介の頭は丸くて可愛いね、と言われたっけな。でも俺は、それがいつなのかはっきりと思いだせなかった。俺の記憶力が弱いのか、思いだせないほど遠い昔のことなのかすら、もう今の俺には分からないけれど。

「ごめんね、蔵ノ介」

鼻になじんだ彼女のにおい。昔はよかった。彼女がいて、俺がいて。それなのに、いつからだろう。いつからこんな風になってしもたんやろうね、俺。

「わたしのせいだ」
「いや、」
「わたしのせいなんだよ、蔵ノ介」

八畳間にようやく響くくらいの弱々しい声。彼女の中から大切なものがぽろぽろと零れていくような気がして、彼女をぎゅっと抱きしめると、彼女も俺にすがるかのように抱きしめ返してくれた。人肌はやっぱり心地いい。ずっとこのままでいたい。俺の中にあった大切なものはもうずいぶん流れ出てしまったけれど、ずっとこのまま、彼女が俺に栓をしてくれたらいい。

「わたしが、助けてあげるから」
「…ああ」
「わたしが、全部から蔵ノ介を解放してあげるから。世間からも、悪夢からも、あの人形からも」


彼は死んだ。助けてあげると約束した日の翌日。大量の睡眠薬を飲み、まさに眠るように死んでいた。

朝、瞼を通り抜けて網膜を突き刺す日の光で目を覚ますと、珍しくドアに鍵がかかっていなかった。ドアに数センチほどの僅かな隙間があったのだ。珍しい失態に、これで逃げられる、という気持ちよりも、蔵ノ介に何かあったのではという不安を感じて朝食の香りが満ちているリビングルームに向かう。二人用にしては大きすぎるダイニングテーブルのひとつの椅子には彼が座っていて、わたしはほっとした。良かった、生きてた。「蔵ノ介、」とその丸い背中に声をかけたとき、ようやく異変に気付いた。彼がぴくりとも動かないのだ。蔵ノ介は、静かに死んでいた。

蔵ノ介の死後、遺品はすべて彼の家族に送った。出来れば一つ残らずわたしの大切なものにしたかったが、なにしろわたしにはこのアパートがあったのだ。蔵ノ介のためにも、ここは誰にも明け渡すわけにはいかない。駅前にあるわたしのアパートを売り払い、今日からでもこの部屋に住もう。名義を、蔵ノ介からわたしに変えればいいだけ。面倒な手続きをすれば済むことだ。わたしの荷物をここへ移すのにかかる手間と費用を考えると、新しいものを揃えた方が楽なのだろうけれどわたしはそんな無粋なことはしたくない。だってそれが愛情ってやつでしょう?

わたしが軟禁されていた八畳間は、相も変わらずいやな臭いが充満していた。入った途端鼻につく強烈な腐臭(やはり日に日に増している気がする)。わたしは少し前までこんなひどい部屋の中にいたのか。ウジがたかっていないだけまだマシだが、それはもはや堪えられるものではない。処分しよう、と思った。

寺田葵、と書かれたゴールドの免許証をライターで炙って焼いた。大学在籍を示す学生証も、メール送信履歴がわたしで一杯の携帯電話も、所狭しとプリクラが張られた手帳まで、足がつきそうなものは何もかも片っ端から焼いた。わたしがごみ箱へと投げ捨てた花柄のシュシュも、わざわざ中身をひっくり返して探しだして油をかけて焼いた。もし見られたらと考えると、ドラム缶に彼女の所持品を全て詰め一気に焼ききってしまうことはできなかった。わたしは臆病な人間だ。

あのこ、お前のこと好きらしいで。

半年前、カフェテリアで蔵ノ介が言った。蔵ノ介の視線の先を見ると、色褪せたような色の髪の毛をぐりぐりと巻いた、いかにも頭の悪そうな顔を張り付けた、大和撫子とは程遠い女の人。それが彼女だった。こちらに気付いて何を勘違いしたのか顔を赤らめる。至極鬱陶しいと思った。わたしにとっての恋愛対象は蔵ノ介だけで、唯一なのだ。それ以外は男だろうが女だろうが、どうでも良いに等しい。この女も同じだ。だから彼女からのメールには申し訳程度にしか返信せず(誰からアドレスを聞いたのか)、誘いもことごとく断った。蔵ノ介はそんなわたしを見て、自分はちょっと冷たすぎや、だなんて言っていた、のに。


大学が冬休みに入り、わたしが軟禁されるようになってから一週間が過ぎた頃、蔵ノ介は彼女を連れてきた。けれど、久しぶりに会う彼女は、

「…蔵ノ介、まさか、」
「俺にはなでしこがおるけど、自分には誰もおらんやん?やから拾ってきてあげてん、自分の人形」

これで自分もさみしくないなあ。そう言って、どさり、と"人形"を西日の差さない薄暗い棚の上に置いた。本物の人形を置くかのような、違和感のない動作。無造作に座らせられた"人形"の髪の毛をまとめていた花柄のシュシュからは、人間のにおいがした。

飾りのない笑顔がいつから狂っていたのか、わたしには分からなかった。彼女と出会ったときか、彼女を殺したときか、それとも最初からか。見当すらつかない。なにしろ蔵ノ介はその日、何もかもがいつも通りだったのだ。あの日、彼はどんな顔をしながら彼女を殺したのだろう。

「ごめんなさい」

もはや原形を留めていない彼女、寺田葵の体を海に沈めた。崩れてボロボロになった彼女は、わたしが吐き気を堪えているうちに、あっという間に日本海に散った。これから"彼女だったもの"は、日本海流に流され、南へと向かうのだ。ようやく終わった、そう思うと涙が流れた。やはり、わたしは臆病な人間だ。




罪と罰

20110915



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