テキスト | ナノ

わたしは、わたしではない誰かになりたかった。わたしではない誰か。いつも遅刻ギリギリに登校する俊足のクラスメイトでも、口うるさい母親でも、わたし以外なのであれば誰でもいい。平凡だが平穏な暮らしが出来ればそれで。ああそうだ。それなら、毎朝電車で向かいに座る、暗い緑色の靴下を履いたサラリーマンがいい。あの靴下の色は正直全く趣味ではないけれど、わたしがわたしであるよりはずうっとましだ。あるいは、ヒトも、蛇のように脱皮ができたらいい。それなら今すぐわたしはわたしを辞められる。たぶん。

「なにお前、怖いの」
「いいえ、」

怖いのとは違うんです、先生。

受験のプレッシャーに押し潰されそうなのとも、ストレスがたまっているのとも違う。わたしがわたしであることへの、単純な不安。わたしは何をもってわたしなのか。何がわたしを構築させているのか。いわば、アイデンティティー。それが見えない。わからない。探せない。だから、この体が落ち着かない。

「おめーに哲学者気取りは100年早えよ」
「でも、先生だって、」
「俺は俺の体を持て余してなんかいねえよ。お前とは違う」

先生のような人間になれれば良かった、と思った。だが、どう足掻いてもわたしは先生にはなれないのだ。一人称を「俺」に変えても、銀縁の眼鏡をかけても、わたしは結局ただのわたし。先生に依存できる、ほかの生徒より少しばかり恵まれた女子生徒。そしてそれも、春が来ればもともと何もなかったかのように真っさらになる。わたしが先生のそばにいた痕跡なんて、何も残らない。

「わたしの代わりなんていくらでもいるんです、先生」

月並みなセリフだがその通りだ。来年わたしがいなくなっても、次がいる。次の次だっている。わたしじゃなくても、たくさん。ああ、消えてしまいたい。わたしの代わりの誰かに、なりたい。

「哲学者気取りは100年早えつっただろうが」
「先生は、ずるい」
「人間はずる賢い生き物なんだよ、俺も、お前も」
「生きているのがつらいんです。あなたのそばにいるのが、」
「なら死ね」
「来年の今頃はわたしの代わりといるだろう先生と今一緒にいるのが、辛くてたまりません」

離れていくと分かっているひとを想い続けるくらいなら、いっそ、別の、平和な生活を送れる誰か。あの、趣味の悪い靴下を履いたサラリーマンに。

「先生と出会わなければ良かったんでしょうか」
「さあな、神にでも聞け」

もうこの話は終わりだとばかりに手元の本へ視線を落とす先生は、世界で一番美しい。それが恋のせいだと気づいたのは、ごく最近だけれど。

「寂しくなるな、来年から」
「え?」
「お前がいねえ、つまんね」
「…でも、」
「お前の代わりとやらならいらねえよ、」

胸の、心臓の裏側にたまっていたものがすうっと消えていった気がした。あんまりにもすんなりなくなったから、今まで苦しんでいたのが馬鹿みたいだ。のどのつっかえが取れたとき、あれに似ている。

「わたしは馬鹿でした」
「今更だ。みんな馬鹿だ」
「先生は、わたしの世界なんです」

ずいぶん狭い世界だなおい、そう言った先生が足を組みかえたときにちらっとスラックスの裾から覗いた靴下は暗い緑色。わたしは、どうしようもなく惹かれている。



オリーヴ・ワールド

20110906



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