テキスト | ナノ

駅のホーム、白線のギリギリ内側と呼べる場所に彼女は立っていた。どこを見つめるでもなく、何をするでもなかった。ただ、そこに立っていた。目の前を電車が通りすぎる度に艶やかな黒髪が遊ぶ。声をかけようか、かけまいか。

ちょうど停車した電車のドアが開いた。スーツ、ネクタイ、革靴。だれもかれもが揃えたような身なり。疲れきった顔をしているくせに、電話(上司からだろうか)に出るときは贋作の笑顔を張り付けるところまで、ぴったり。ふと、数年前話題になった有名絵画の贋作の話を思い出した。フェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」。あれは結局本物だったが、僕には偽物との区別が全くつけられなかった。フェルメールではないと言われればそうだと思えるけれど、フェルメールだと言われてみればそんな気もする。鑑定眼がないと言われればそれまでだ。でも、芸術というものはそういうものだと僕は思うのだ。ある特定の個人の感性で生み出したものを、創作者以外の個人の感性で推し量るだなんて、ダーツ針でチェスをしようとするようなものだ。無意味で、無茶で、あまりにもナンセンス。
そう考えると、みんな一緒に見えた彼らの身なり。あれだって彼ら一人一人の感性から選ばれた、いわば「作品」であって、それを赤の他人である僕がどうこう言うのは筋違いだということになる。不思議なものだ。

僕がそんなつまらないことを考えているうちに、彼女の姿はいつのまにか消え去っていた。辺りを見回してみるも、この人混みの中で彼女を見つけるのは不可能だ。きょろきょろし突っ立っている僕に舌打ちをしたり、非難の目で一瞥したりして、黒服の集団は改札へと向かって行った。何をそんなに急いでいるのか人生経験の浅い僕には分からないけれど、僕もいずれ、遠くない将来、あの集団の一員とならねばならないのだろうか。

急に、息苦しさを感じた。肺の片方を誰かに強く捕まれている感覚。なんてことはない、やさしい鬱。こんな時、僕は頭の中で、彼らにお似合いの真っ黒いサングラスをかける。髪型をこてこてのオールバックにする。校長先生がつけているようなポマードの匂いがつん、とした。ほら、エージェント・スミスの出来上がり。僕はもちろん、ネオ。

「斎木くん」

すぐ後ろから声がした。聞き覚えがある。
振り向くと、案の定、さきほどまで視界に入りすらしなかった女性が僕を見上げていた。形の良い耳に心許なくぶら下がっている、地球儀を象ったピアスに日光が反射して眩しい。そうだ、これはたしか、彼女のお気に入り。

「どうして人はあんな金属おばけに飛び込んでいけるんだと思う?」

美しいひとだ、と思った。



レバノンと彼女は似ている

20110817



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