温水の花弁たちと


「もうだめだ。俺ァ寝る」



隣の伊佐敷くんが力尽きたように机に突っ伏した。ついでにおでこが机にぶつかるような、ごつんという音もした。相当疲れているんだなあ、と私は同情した。うちの野球部は全国クラスで、全寮制ってことは毎日野球漬けなんだろうなあと考えると、真面目に授業を受けろと言うのも無理な話な気がしてくる。



「練習、大変だもんね」

「まあな」

「ノート貸して、書いといてあげる」

「えっ」

「後から写すの面倒くさいでしょ。それにそんなに板書多くないから、伊佐敷くんの分も書いとくよ」

「いや、それはさすがに悪ぃよ」

「いいのに」



私の言葉に驚いた伊佐敷くんはむくっと起き上がった。そしてシャーペンを握りしめて、大丈夫、と言った。結構そこんとこのプライドは高いのかな。それとも本当に申し訳ないと思ってるのかな。でもたぶん後者だろうな。それから五分もしないうちに、見れば伊佐敷くんがうとうとし始めた。ゆらゆらと揺れ始める彼になんだか微笑んでしまう。いつもの強面が嘘みたいだ。彼を起こさないようにそっとノートを引き抜いた。書いといてあげよう、そう思ったら、背中にぽんと何かが当たった。振り返ると椅子の足下に折りたたんだ紙が落ちていた。不思議に思って紙を開く。



「甘やかしちゃだめだよ」



そう、紙に書いてあった。勢いよく後ろを見ると、二列後ろの斜めにいる小湊くんがニコニコしながらこっちに手を振っていた。「ひっ」と声が漏れたのは言うまでもない。私もははは…と愛想笑いを返して前を向いた。うわあ小湊くん一年生の時も同じクラスだったけど全然変わってないなあ…。うーんと迷ったが、背中にじりじり感じる視線に耐えて私はノートを写し始めた。




***




目が覚めると授業は終わっていた。なんだおい、俺結局寝たのかよ、と思って頭をガシガシと掻くと、ノートが閉じてあった。あれ、確か開いたまま寝たはずだよなあ。そう思ってノートを開くと俺の乱雑な字の後に、きれいな字で続きの板書が並んでいた。苗字だと気づくのに時間はかからなくて、でも隣を見たら彼女の姿はそこにはなかった。



「助かったじゃん」

「ウォアア亮介いつからそこにいたんだよ!」

「いつって、純がむくっと起きた時から」

「急に声かけんじゃねーよ!びびるだろーがよ!」

「吠えない吠えない」



亮介は楽しそうに笑っていた。周りの女子の視線を集めていた。ったく声がでけぇくらいで驚いてんじゃねえよ、と周りの連中をひと睨みしてやった。すると皆、何も見ていなかったように視線を逸らす。いい気味だ。



「そんなことするから怖がられるんだよ」

「別に怖がってねーだろ」

「苗字も?」



その言葉に心臓を掴まれたような変な感覚に襲われた。亮介は相変わらず不敵に笑っている。苗字も?亮介の言葉が頭の中でこだまする。どうしてこいつは苗字が俺を怖がっていると、知っているんだろうか。



「でも不思議だよ。なんで苗字は純を怖いと思ってるのに、こうやって助けたりするんだろうね」

「知らねーよ」

「甘やかすなって言ったのになあ」



亮介はそう言って、うわ字きれいじゃん、と俺のノートを覗き込んだ。隣を見たが、やはり苗字はまだ席にいなかった。

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