キューティーハニー。その曲を演奏するたびに私は力んでしまって音が上手に出せない。瞼の裏に焼き付いている、太陽と、球場の芝の色。あの日も私は彼を見下ろしていた。桃色の髪はぎらぎらと照りつける太陽にあたって艶やかで、風が吹くと襟足のあたりがそよぐ。彼は時折後輩に声をかけたりチョップしたりしていて、チームの雰囲気はスタンドから見ても和やかなのはわかる。私はトランペットを握りしめて、暑さで背中に汗が伝うのも全く気にせずに彼らを見下ろしていた。小湊亮介くん。去年同じクラスだった少し華奢な男の子だ。いつもにこにこ笑っているけど何か腹の中で考えてそうな、あまりいい印象のない男の子だったのだけど、いつの間にか私は彼のことばかり考えてしまうようになっていた。彼は時々優しかった。いつもは特に接点もないのに、なぜか私が困ったときには彼がいて、そっと大したことをしたようにも見せずに私を助けてくれるのだ。それで私は彼が好きだとなんとなく自覚し始めたのだけど、その思いは自分の口から伝えられなかった。クラスの男の子が彼に「名字はたぶんお前のこと好きだよ」なんて噂していて、特に二人でそういう話はしたこともなかったのに、なんとなくそのような空気になってしまった。言葉にはしていない。でも、伝わってしまった。それから私たちはクラスが分かれてしまってほとんど顔を合わせることはなくなった。小湊くんは、私が彼のことを好きだと知ってどう思ったんだろうか。そんなこと知る由もないし、聞くこともできない。終わったのか終わっていないのかはっきりしない、ぼんやりとした水彩画みたいなこの気持ちを、私はいつも持て余していた。



「ほら、名前そこ半音違うよ」

「あっ…ごめん」

「なんか名前っていつも音だけは正確なのに、この曲だけいつも少し変なんだから」



同じトランペットの友達に怒られてしまった。キューティーハニーは私が一番苦手な曲だった。だって、小湊くんのヒッティングマーチだから。この曲を演奏しているとすぐに彼や彼にまつわることが頭をぐるぐる回ってまるで集中できなくなる。彼にとっての最後の夏は、私にとっての最後の夏でもある。もう野球部が引退してしまえば、私たちもほぼ引退だ。もう彼らの応援をできなくなる、彼の応援を、できなくなる。「集中が切れてきたんじゃない?ちょっと休憩はさもう」とパートリーダーである友達が言って立ち上がった。ああ、私のせいで練習を中断させてしまった。自己嫌悪に陥りながらしっかりしなきゃとトイレに顔を洗いに行こうと思っていたら、廊下に当の本人である小湊くんがいて私はぎょっとした。とっさに「ひ、ひさしぶり」と言うと、彼はいつもの笑顔で「ひさしぶりだね」と返してくれた。私はいつも彼と話すときどんな声音だったかな。もう思い出せない。緊張して縮こまる喉から振り絞るように言う。



「…部活は?今日…」

「ああ、進路面談がさっき終わったところ」

「そうなんだ」

「名字は休憩中か何か?」

「うん」

「そっか」



下を向くしかない。進路面談か。私は昨日済ませて、第一志望は近くの国立の大学にした。きっと小湊くんは野球の推薦でどこかの大学に行くんじゃないかなあ。そしたら私たちは永遠に会わない、と私は何の根拠もなくそう思った。そしたらこうやって、ほんの時たま「ひさしぶり」と話すこともなくなるのだな。そう思うと、この恋も終わりにしていい気がしてきた。いつか、時が勝手に終わらせるだろう。そこから何を話していいかわからずに口をつぐんだままでいると、先に口を開いたのは小湊くんだった。「あのさ」と突然言う彼に私は顔をあげた。にこにこと笑顔で、冷たさのような温かさのような、私には掴みきれない感情がそこにはあるんだけど、どうしても私はそんな彼に魅力を感じざるを得なかった。小湊くんはシャツの袖を触りながら言う。



「俺のヒッティングマーチ」

「え?」

「一番いい演奏してほしい。俺はさ、名字のこと甲子園に連れて行きたいんだ」



私は驚きすぎて言葉も出なかった。「だから、一番いい演奏で応援してくれよ」と小湊くんは言う。少し照れ臭そうに笑って「ちょっとくさいこと言ったけど、まあ本当にそう思ってるから」と言って、そんな笑い方をした彼を見たことがなかったので私は心臓が張り裂けそうなくらいどきどきしていた。一番いい演奏。今の私の演奏はそれには程遠い、邪念ばかりで失敗ばかり。それは小湊くんを思って引き起こっていることだけれど、彼は自分のためにとそう言ってくれた。私が何も言えずに立ち尽くしていると、彼はいつものにこにこ顔に戻って、じゃあねと手を振りながら去って行った。



「だからそんな思いつめた顔してないで、俺のためと思って練習頑張ってよ」



小湊くんはいつも私を助けてくれる。それがどんな形でも、最終的には私は救われている。音楽室に戻って練習を再開する。キューティーハニー。演奏し始めるといつもと同じように私の中は小湊くんでいっぱいになるのに、いつもと何かが違う。指が軽い。お腹に力が入る。俺はさ、名字のことを甲子園に連れて行きたいんだ。小湊くんの声が音色の間で掻き消えそうになりながら耳でこだまする。力になる。彼の勇ましい背中を瞼の裏に感じながら演奏していると、気づいたら曲は終わっていた。「今の、今までで一番よかった!最高!」と友達は喜んでいて、周りもわっと沸いた。私は笑顔になりながら手の中のトランペットを見た。小湊くんを甲子園に、彼のために私は精一杯この曲を吹く。

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