あいつの姿が見当たらないから、俺は卒業証書を持ったまま廊下を走り抜けた。だいたい何処にいるかは見当がついていたから、俺の足は迷うことがない。部活を引退してから半年も経っているだけあって、前に比べてすぐに息があがる気がする。
「ほうら、やっぱりここにいやがった…」
俺の声が聞こえて苗字はくるりとこっちを見た。そこは学校で一番大きなイチョウの木の下で、彼女のお気に入りの場所であった。彼女が座っている木の根の隣に立った。俺を見上げる苗字の髪が風で揺れて、彼女は少し目を細めた。
「伊佐敷」
「みんなお前のこと探してんぞ」
「うん」
「って、行かねーのかよ」
クラスメートらが突然いなくなった苗字に気づいて探していた。それを見た俺は身体が勝手に動き出して、走り出していたのだ。別にやつらが彼女を探しているから呼びに来た、わけではなかった。苗字は笑って下を向いた。彼女がそこを動く気がないのをわかって俺も隣に座る。
「なんかね、クラスみんなで騒いでるあの感じが…非日常っていうか…ああ本当に卒業なんだって思い知らされて辛いんだよね」
「まあ確かにな」
「ここ来ると静かだし、いつ来ても変わらないんだもん」
苗字は背中の木の幹に頭をつけて上を見た。確かにここは相変わらず人が少ない(というか今日は卒業式という行事の日だけあって誰もいない)し、日常風景以外の何でもなかった。木洩れ日が制服のズボンの上で揺れている。彼女の顔を盗み見れば、ぼうっと遠くの方を見ていた。
「楽しかったなあ、高校生活」
「おう」
「無事大学も決まったし」
「ありがてえ事にな」
「さらば青春」
「まだ終わらねーだろ」
「そうなの?」
「知らねーけど」
苗字は、なんだ青春って高校で終わらないんだよかった、などと安心したように笑っていた。俺はよくわからないが、姉貴は大学でも青春してるだのしてないだのと言っていた気がする。正直もう忘れたが。吹く風が暖かくていよいよ春だと思わせる。
「部活、頑張ったよね」
「ああ、死ぬほど頑張った」
「勉強はそこそこだったけど、友だちもたくさんできたし、学校行事も頑張ったし、高校生活に悔いはないよ」
「・・・」
「ただ、寂しすぎるな…」
私青道が本当に好きみたい、と苗字は自分に呆れたように笑っていた。部活は先ほどの言葉通り、死ぬほど頑張った。夢は果たせなかったけど、それでも俺は野球を頑張っててよかったと思ってる。勉強はまあ言うまでもないが、引退してからは人生最後の文化祭や体育祭も大いに楽しんで、それらに関しては、もう悔いはない。でも、俺にはまだやり残していることがあった。
「俺は悔い、まだある」
「なに?」
「まだ、お前に好きだって、伝えてねえ」
「え?」
見開かれた苗字の目、そして勢いよくこちらを見た勢いで髪が頬にかかった。卒業証書を持った手を地面について、ずいと彼女に近づいた。驚いたままの苗字の唇に自分のものを押し付ける。彼女は驚きのあまり硬直していた。全てが一瞬だったけど全てが長く感じて、でも一方であっという間なような気もして、不思議な感覚だった。彼女の唇の柔らかさに、目眩がした。気まずくなるだろうと思い下を向く。
「もうねーわ、悔い」
「…私も、悔いは残さない」
「ん」
「好き、だよ。伊佐敷」
彼女を見ると顔を赤くして、控えめにこちらを見ていた。心臓が早く鼓動して、頭の奥がじんわりと痺れる。「お前まじで言ってんのか」と聞くと苗字はこくんと頷くので、俺は今にも叫びたい衝動を抑えて身を乗り出した。木洩れ日が俺のズボンと彼女のスカートの上で揺れて、もう一度二人の唇が重なった。
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