- ナノ -


大筒木編

-二人の生き方-



「………」

インドラはクスクス笑うセンリを見て俯く。センリはそんなインドラに気づき、首を傾げた。


『どうしたの?』


センリがインドラを覗き込む。ふと、どこかインドラがいつもと違うような感じがした。神妙な表情だ。


「センリ、昔、俺に言ったろう」

インドラは地面を見つめながら呟くような声で話す。


『ん?』

センリは不思議そうにしながらも、インドラの言葉に耳を傾けた。


「まだ幼い頃、センリは俺の側にずっといてくれると言った。あれは、本当か?」


インドラにしては珍しい、少し弱気な声だった。センリは予想外の言葉に少し驚いたが、すぐに笑顔に戻る。


『本当だよ。私は死なないからね。インドラがここにいない間も、ずっと側にいたでしょう!』


インドラが顔を上げ、分からないという表情をした。センリは微笑み、岩から降り、インドラの前に立ちその左胸に手を当てる。


『私はいつだって、ここにいるよ』


ふわり、と。柔らかな風が二人の間に流れた。

インドラは目を見開きセンリを見つめる。いくら見つめても、センリの目には偽りはなかった。一切の曇りのない、澄み切った空のようだった。真っ直ぐで、美しい。


綺麗すぎた。

センリの瞳も、考えも、心も。そのすべてが。


縋ってしまいたくなった。何もかも忘れて。この優しい笑顔に縋ってしまいたかった。心の中の淀みを全部吐き出して、センリに受け止めてほしかった。


「(それが出来るのならば、どんなに良かっただろう)」


もう遅かったのだ。
何もかもが遅かった。後戻りは出来ない深い深い場所まで、インドラは来てしまった。インドラは知ってしまった。ハゴロモとセンリの望む世界は、自分が望む世界ではないことを。



『インドラ?どうしたの?』


しかし、今だけはどうでもよかった。何も考えたくなかった。

インドラはセンリを引き寄せ、その華奢な肩に顔を埋める。花のような可憐な、それでいてどこか安心感のある甘い匂いがした。幼い頃感じたのと同じ安堵に包まれた。


「少しだけ……」


センリは困ったように笑い、少しクセのあるインドラの髪を撫でた。少し、小さな頃のインドラを思い出した。時々こうやって恥ずかしそうに抱きついて来ては、何も言わず顔を埋める。インドラの僅かな甘えだ。


センリを抱き締めるその腕は、まるで子どものようにただただ温もりを求めていた。センリはインドラの心の懸念を拭い去るように、それに応えた。大切な大切な、息子だ。



センリの体はいつも温かかった。安心する匂いがした。

抱き締める腕の中にあるその体は細く小さく、こんなに華奢だったのかとインドラは少し驚いた。

小さな頃はあんなに大きく、偉大に見えたのに。母であり姉であり、友達でもあったセンリ。いつでも視線を合わせて座り込み、ちゃんと話を聞いてくれた。


それが今になってこうしてみると、自分の腕で包み込んでしまうくらい小さい。少し力を入れたら壊れてしまいそうだ。


少し目線をずらすと、優しく微笑むセンリの顔がある。インドラの大好きなセンリの表情だ。

インドラはセンリをじっと見つめる。

潤いに満ちた金色の大きな瞳は、長くたくさんの睫毛に縁取られている。微笑むとその目が優しくふにゃ、と弧を描くのは、何ともいえない愛らしい表情だった。

少し小さめの唇は口紅など塗らなくてもいいくらい潤っていて薄桃色だ。吹き出物もシミもない、きめ細やかな肌はまるで陶器のようだ。触れるとしっとりとこちらの肌に吸い付いてきてこれもまた何とも形容しがたい柔らかさだった。

作り物のようにも見えるセンリだったが、いつでも笑みを絶やさなかった。


『どうしたのインドラ。くすぐったいよ』


インドラが自分の頬をセンリの頬にくっ付けている。センリは、あはは、とくすぐったそうに笑った。
鈴が鳴るような笑い声。それを聞いてインドラはセンリを抱き締める腕に力を入れた。心臓がきゅっと締め付けられた。甘い痛みだ。

どこからか季節外れの蝶が飛んで来て、センリの肩に留まった。反対側の肩にとまる蝶の羽を見つめながら、インドラは確信していた。


ああ、そうか。


ずっと不思議だった。



「(俺は、センリを………)」



今日だけ。


今だけ。


インドラは自分にそう言い聞かせた。



「(明日からはもう………………―――やめる)」


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