ナルシスが凍る頃

00.プロローグが醒める頃


ご都合主義のハッピーエンド。
それは醜い感情に侵されることも、悪意に晒されることも、現実に打ち砕かれることもなくて、一緒に苦難を乗り越えた先にある、一色の笑顔。奇跡と愛に満ちた、誰も傷つかない世界。フィオレの世界はいつだって均等だった。

悲しみも苦しも死も欲も絶望もない、暗澹を湛えた闇など届かない光の地で。楽しさと喜びと生と希望に満ちた、麗らかな陽だまりに照らされた光の地で。
悪は、必ず滅される、勧善懲悪の世界。

それで良かった。それが見たかった。それだけが欲しかった。フィオレが手にできなかった世界、これからも手にできない世界。フィオレはそれ以外の世界を拒んだ。
壁を立て、繭を作り、思い描いた空想に閉じ籠もる。空想の中なら、傷つかずに、傷つけずに済むからと。
あたためることをも、拒んだ。

悲しみと苦しと死と欲と絶望しかない、暗澹を湛えた闇に満ちた地。些細な願いすら、届かない世界なんて。
そんな世界、"ここ"だけで充分だ。




「……イデアくんが?」

何の変哲もない日と言うに相応しいある日の食卓。一仕事終えて、家族で食事を囲む、日常の一部。両親の口から久々に聞いた名前を、フィオレは繰り返した。

フィオレの幼馴染であるイデアが通っている魔法士養成学校、ナイトレイブンカレッジ。そこでオーバーブロットした生徒が数人いるという情報をS.T.Y.X本部が得たと、フィオレは教えられていた。
そして、オーバーブロットした生徒たちだけでなく、イデアも本部へ強制帰還させられる───と。
その、理由とは、

「イデア君には、所長代理をお願いする手筈になっていて」
「え、でも、おじさんとおばさんは?どこか行くの?」
「ナイトレイブンカレッジの学園長を調査するみたい。立て続けに生徒がオーバーブロットしているわけだし、ある程度の聞き込みは必要でしょう」
「そういうこと……」

と、なれば、たしかに、イデアを所長代理に置くのが筋ではある。大人の相手は大人に。子供の相手は子供に。相手方も、学園の人間がいれば多少気が落ち着くかもしれない。
ボソリと呟いたフィオレは、皿に盛り付けられている肉じゃがのじゃがいもに、箸を向ける。

「というわけで、フィオレには所長代理の補佐をしてほしいの」

じゃがいもを半分に割ろうとした箸が、カツンッと交差する。
思うように箸に力が入らなかったのは、使っている本人だからこそ分かる。大きさの変わらないじゃがいもを放置して、フィオレは視線を両親へ戻した。

「えっ!?お父さんたちがいるのに!?」
「将来的にはフィオレがイデア君のサポートをするわけでしょ?これを期に練習させておくのもいいと思って。あ、それとも練習なしでもサポートできる自信が……」
「そういうことを言いたいんじゃなくて!」

本心に混ざる加虐心が母親から見えて、フィオレは思わず声を荒らげてしまう。妙にニコニコして楽しげに話しているのが、腹立たしく感じるのだ。
怒るフィオレの図星に母は冗談を繰り返さず、筋の通った理由を並べていく。

「それに、私たちがつくよりフィオレの方が、イデア君もやりやすいでしょう」

いつも自分の親の補佐をしている、幼馴染の親から補助。確かにそれは、気を使わせてしまうかもしれない。逆の立場ならフィオレも気を使ってしまうため、母親の言い分は大いに理解できる。避けられるのなら避けてあげたいとも思った。
それに、今後のための練習をお互いで担えるのなら、きっとそれに越したことはない───腹にすとんと落ちたフィオレに、覇気がなくなる。

「やれって言うなら、やるけど……」
「フィオレの実力なら大丈夫だ。足手まといにはならないさ」
「うん……」

フィオレから不満と同列の不安を感じ取った父親に背中を押され、頷く。
視線を一度諦めたじゃがいもに戻し、今度こそ半分に分けた。片割れを箸で掴んで口に含み、もぐもぐと咀嚼しながら、フィオレは考える。

補佐の件は納得できるし、理に適っているから、それはいい。ただ……。

「……イデアくんがナイトレイブンカレッジに行ってどのくらいだっけ……ホリデーもたまにしか帰ってきてないよね……?」

間違いなければ、前の冬は戻ってきてない。その前は?と思い浮かべてみるも、曖昧。仮に帰ってきていたとしても、イデアは日頃から部屋に引き籠もるため、悠長に話すことはなかった。
ただ、オルトは挨拶に来てくれるため、どこかしらで顔は合わせている……のだが。それが月単位なのか年単位なのか、フィオレには分からなかった。

なんやかんやで、私も引き籠もってるしな……。と、すれ違いが片方だけの問題ではないと知るフィオレが食事を進めていると、母親がその呟きに反応する。

「どうして連絡取ってないの?仲は悪くないでしょ?」
「うん……まあ……色々考えてね」

取らない理由もなければ、取る理由もない。ならば取らなくていいか、という大雑把な考えから、連絡は一切していなかった。

こちらにはこちらの生活が。イデアにはイデアの生活があるし、イデア相手とはいえS.T.Y.X内部の話を外部に漏らすわけにもいかない。学業の妨げになってもいけないし、変に連絡される方が、色々と考えちゃうかも……という、気遣いであり厄介事の回避だ。面倒事から身を守る習性は、とてもオタクらしい。

母親の質問を曖昧に返し、フィオレは食事を終える。
ごちそうさま、と一言入れて、食器をまとめ始めたときだ。

「そうだ、いつものやつ頂戴」
「……ああ、ウエハースね……お陰でいい感じに消費できてるよ……」

母親にせがまれ、食器を任せたフィオレは立ち上がる。量が多すぎて役目を果たせていないお菓子ボックスへ向かい、キラキラしたパッケージのそれを手に取り、頭のギザギザのへこみを千切って開ける。
中に入っているものは2つだ。網目模様のウエハースと、紙のようなプラスチックのカード。フィオレにとって不必要なウエハースを、母親へと手渡した。

「あ、そうそう!」

今度は何。
フィオレがおまけという名の本命を確認していたとき、発せられた声に嫌な予感しかしなくて、眉に力が入る。『厄介事はお断り』だと顔に書いて、つい母を見てしまった。

「連れて来る生徒の中に、ヴィル・シェーンハイトもいるんですって!ねぇフィオレ、サイン貰っておいて!」
「ええぇ……めちゃくちゃ個人的な頼み事……。覚えてたらね……」

厄介事ではないけれど、実にしょうもない。気を張って損した。
というか、ヴィル・シェーンハイトもオーバーブロットしたの?そんなのニュースにもなってないのに、S.T.Y.Xはどこからそんな情報を手に入れたわけ?絶対にどっかの組織と手を組んでるでしょう……。

けど、それは、"中"にいるフィオレには、関係のない話。与えられた仕事をこなして、夢見る隙もなく終わる、この人生。ぱっと思うだけで、深く考えることはなかった。

わいわいと盛り上がる母親を横目に、フィオレは消えぬ懸念に苛まれる。

「……イデアくん……戻ってくるのかな……」

本当は、分かっている。
連絡を取っていない"理由"くらい。
きっと彼は"ここ"から離れた場所に、いたいだろうから。直接聞いたわけではないけれど、そう感じてしまうのは、私たちが───。

目を、伏せる。
描くは、ご都合主義のハッピーエンド。悲しみも苦しも死も欲も絶望もない、暗澹を湛えた闇など届かない光の地。楽しさと喜びと生と希望に満ちた、麗らかな陽だまりに照らされた光の地。

せめて、学園生活を送っているときくらい、現実から目を背けて、夢を見ていてほしい。フィオレが欲しい世界とは別の夢を、見てほしい。私という存在で、思い出してほしくない───それが、フィオレがイデアに連絡しない理由だ。

何もできないフィオレに、唯一できること。
暗黙の了解で傷を舐め合ってるだけの2人に、確認する術はない。



230623

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