Glastheim Marchen

雨下

ヘレンは運が良い方だ。
誰かに言われるわけでも言うわけでもなく、自他共に知られ認められている。ヘレンは強運の持ち主である。
知らぬうちにどこかで徳を積んでいるのかもしれないし、前世がちょっぴし善行者だったのかもしれない。または私欲がないから、運が有り余っているか。なんであれ、ヘレンは運に守られていた。

のらりくらりと生きるヘレンだが、天気予報くらい一応確認する。一応というか、普通に、しっかり、確認するし、した。けれど鈍色に霞む景色を見て、瞬時にヘレンの脳裏に走った。

───ちょっと過信してしまったかな?

土砂降りではないも、粒がしっかりと見て取れる雨。
突然の雨に驚いて走り去る人、事前に用意していた傘を差す人が見受けられる中、ヘレンはどちらにも該当せず、百貨店の屋根の下で雨宿りしていた。試しに手を屋外へ差し出してみると、それは肌をバチバチと弾く。それなりに大きい雨粒だった。

ヘレンにはそれを、雨を凌ぐ傘はない。確認した手を引っ込めて、振り続ける雨をぼんやり眺めた。
小一時間ほど外に出て、買うものを買って帰るつもりだったから。天気予報の雨マークはしっかりと見ていたけれど、家に帰るまで振らないだろうと高を括ってしまった。これでも、家に入った一瞬感に土砂降りになるとか、家に出る間際で晴れるとか、なんやかんやで強運を叩き出しているのだが、本日は不調らしい。やはり過信してしまったな、と。

「…………」

さて、どうする。
降ってしまったものは仕方ないのだから、今後について考えよう。
雨が止むまで待つ?いや、天気予報では続くと言っていた。なら傘を買う?いいや、ヘレンがそんな面倒なことを、選ぶはずがなかった。

ヘレンは歩き出す。走るのではない。歩く。雨が降り続くその道を、ただ歩いた。見えない傘でも差しているのかと勘繰ってしまうほど自然に歩いた。知らない人がチラチラとこちらを見ているような気がしたが、ヘレンは気にせず歩いた。

と言いながら、もしかすると認知されているかもしれないけど。特務支援課に、ラベンダー色の髪の女が居なかったか───と。
ヘレン・シュトラーフェの評価が下がることはどうでもいいが、特務支援課に雨に打たれる変人がいる、などという噂は避けたいため、他人の空似だと思ってほしいところだ。

そうして歩くこと、数分。家までの中間地点。湿気を含んだ髪がしんなりとしてきたときだ。

「……シズクちゃん?」

ヘレンは前から歩いて来る、見知った人物を見つけた。出発前まで一緒に居て、見送ってくれた少女。疑問形を使ってしまったが、あの黒髪、見間違える筈がない。ヘレンの中で一番馴染みのある黒髪だ。

そして相手も、ヘレンに気づいている様子。というより、その足はヘレンを目指していた。お互いに距離を縮める形で目の前に立ったとき、シズクは差していた傘の半分をヘレンの頭上へかざし、ため息を零した。

「はあ……やっぱりお父さんの言う通りだ……」
「ん?アリオスが何?」

ヘレンが尋ねている間に、シズクは差している傘と別の傘を開き、ヘレンに差し出す。
ビニールで作られた素朴なそれは、一応ヘレンの傘。シズクの花が描かれた桃色の傘と違って特徴も色気もなく、『傘は雨が凌げればいい』という、拘りも好みも飾りっ気もない考えから購入された傘だ。値段も安いし、必要なくなったときに捨てられるから楽……なんて本音を溢せば、確実に引かれるのは分かっている。
ともあれ、シズクは傘を届けにわざわざ外へ出たらしい。

ヘレンは差し出された傘を受け取り、雨を遮る。ヘレンの問いに、シズクは答えた。

「ヘレンさんは雨の中でも気にせず歩くタイプだからって」
「…………」

ああ、なるほど。たしかにそれは『お父さんの言う通り』である。現にヘレンは傘を差さず、走りもせず、待つこともなく雨に打たれていたのだから。何一つ間違っていない。
何も返せなくて、思わず黙り込んでしまったが、ヘレンにも行動を起こす理由くらいある。

「……多少濡れてもどうってことないのに」
「と言うだろうけど、とも話していました」
「はあ……」

ため息でも呆れでもない単語が、言葉として吐き出される。そこまで分かって、娘に傘を持って行かせるのか。そう思ってしまう。

「……放っておけばいいのにね」
「困るんですよ、お父さんが」
「……はあ」

───参ったな。

今度は言葉だけでない、ただのため息が出てしまった。
ヘレンが無意識に自分自身を蔑ろにする癖があると知って、言われているような気もして。侮れない少女だと思った。そう返されると、ヘレンが怯むことも見越していそうだ。

「それに、ロイドさんたちにも怒られてしまいますよ」
「……確かに。ありがたく使わせてもらうわ」

持って来てもらって差さないで帰るほど、意地っ張りでもなければ、雨に打たれたい趣味もない。
ヘレンはそう言ってシズクが来た道、自身が帰る道を一緒に歩いて行く。

自分よりも自分を大切に思ってくれる人がいることは、きっと些細で、当たり前なことで、幸せなこと。ヘレンが知る由もなかった普通。
今あるその普通が崩れないように。それがきっと、ヘレンが守るべきものなのだと、与えられた絆なのだと、理解せざるを得ない。



230422

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