むかしのことはもう何も分からない。親の顔も、友人、部活の先輩や後輩の顔や名前もすべて。辛うじて覚えていたはずの二人の幼馴染は、いつしか一人しか分からなくなってしまった。でも今となってはその頼みの一人に関しては、顔こそ分かるものの、名前は全然分からなくなってしまった。苗字は分かる。真波だ。でも、じゃあ名前は何でしょうと問われると頭を捻ってしまう。真波は私がうまれたときから真波で、それ以上でもなければ、それ以下でもないのだから。「真波は真波」。それが私の弾き出した答えだった。そうじゃないということは分かっているし、理解もある。でも、仕方がないじゃないか。私にはもう、そうするより彼を判断する術がないのだから。




真波はただただ黙って、ペダルを踏んでいた。私も黙りこくる。今、無理矢理に話そうとすれば泣いてしまいそうだったから。


「おにぎり」
「え、」
「内海の作るおにぎり、久々に食べたいな。今度作ってよ。委員長のおにぎりも美味しいんだけど、塩入れすぎて塩っぱいんだよね。内海のおにぎりがちょうどいいんだ。形も大きさも」
「………真波、」
「インターハイも来てよ。委員長と一緒にさ。オレ、すごい速いんだよ。この前、二年生の先輩を負かしたんだ。内海が来てくれたら俺、頑張るから」
「……真波、」
「インターハイが終わったら、二人で自転車で競争しよう。内海も多分、好きになると思うよ。風を切るんだ。すごく気持ち良いよ。そうだ、山も登ろうよ。オレが引くから、内海はなんの心配もいらないよ」
「…真波!!」


もう、やめてくれ。私の心が悲鳴を上げた。ごめん。真波は静かに呟いた。知ってる。全部忘れてしまった今でも、それだけは分かる。私が真波に感じている想いがなんなのか。真波が私にどんな感情を抱いているのか。それらは多分、お互い同じもので、お互い違うものなんだろう。閑静な暗闇の中。頼れるのは街灯と、私たちの乗っている自転車のヘッドライトの明かりだけだった。

多分、真波は私に弱音を吐いてほしいんだ。でもだめだ。絶対、言ってやらないんだから。明日になるまで、私の腹にためて留めて。そうしたら次に瞬きを一回したときには、私は死んでいる。そこにいるのは新しい私だ。新しい内海里緒奈。今日今ここで思ったことも、感情も、何もかも忘れてしまう。真波に対する感情も、すべて。真波のことも忘れるのかと思うとすごく怖い。せめて真波だけは。真波のことだけは。神さま、神さま。仏さま。この祈り、どうか聞き届けてください。どんなに祈っても願っても、私に残されたもので賭けられりるものなんて、もう命くらいしかなかった。どちらにせよ、やはり私は死ぬ運命にあることは変わりない。神さまはいるはずなのに、この祈りはどうして叶わないんだろう。



記憶がなくなるまで、あと2時間。



140711.