インハイが終わってから、荒北くんは泣いていない。だから私も泣かないのだ。一番泣きたい荒北くんが泣いていないっていうのに、私が泣けるかっていうんだ。それくらいの心意気がなければ、荒北くんの彼女は務まらない。



8月の半ば、荒北くんに呼ばれた。メールの本文(内容は淡白なもので会いたい、だけだった)を読む限りではデートというわけでもなさそうだ。
荒北くんとお揃いの、チェレステカラーのクロスバイクに跨り寮まで行く。呼び出されたのは男子寮の一階だった。駐輪場にクロスバイクを停めて、しっかり鍵をかけて寮に向かうと荒北くんが迎えに来てくれた。

「よォ」
「久しぶり」

片手をあげた荒北くんに、どうすればいいのか分からず曖昧に微笑みかける。荒北くんと会うのはインハイ以降、今日がはじめてだ。来いヨ。彼は手短かにそう呟いた。




荒北くんの三歩後ろを黙ってついていく。男子寮は女子寮ほど厳しくないようで、警備員さんに見られなければさほど問題はなかった。彼の部屋に通ることは今までに何回もあったけれど、改めて緊張する。荒北くんが後ろ手で鍵を閉めた音がした。その行為にもうどきりともしないあたり、慣れてしまったのだろう。と、同時に背筋を少しだけ伸ばした。荒北くんが扉の鍵を閉めるときは、真面目な話をするときと相場が決まっていたからだ。
何を話されるのだろうかと心臓がばくばく鳴る。ふと背中に聞こえたのは、荒北くんの心臓の音だった。どくん、どくん。規則正しい彼の心臓の音が背中越しに聞こえる。首筋に彼の鼻息が当たってむず痒い。

「荒北くん?」
「…俺は、頑張ったよな」

考えるより先にその言葉を肯定している自分がいた。うん、頑張った。荒北くんは、頑張ったよ。そっと荒北くんの黒い髪を撫で上げる。さらさらとした彼の髪が私の指をすり抜ける。

「福ちゃんが、褒めてくれた」
「うん。福富、褒めてたよ」

その場にいたわけじゃないから詳しくは知らない。新開くんから、東堂くんから、福富くんから。各方面の人たちから聞いた話を一つに、私なりに纏めただけだから。

「お前、泣かねえの」
「……荒北くんが泣いてないのにさあ、泣けないよ」
「はは。んだ、それ。真面目ちゃんかヨ」
「今更気付いたの?」

笑い話にしようと思って、笑おうとした。でも私の瞳からこぼれたのは笑顔ではなくて涙だった。泣き止め、泣き止め。必死に念じた。荒北くんが泣いてないんだから、まだ泣かないで。お願いだから。「ダッセ」荒北くんは私の首に手を回して、自分と顔を向き合わせた。

「泣いてんじゃねーよ。俺が泣くまで、泣かねえんだろ?」

その顔を見て驚いた。「馬鹿じゃないの」私は笑いながら、彼の頬に手を当てた。少しだけ濡れているその頬が愛おしく感じた。

「あんただって、泣いてんじゃん」


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