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泡沫の日曜日


 何の気なしにベランダの窓を開けて、吹き込んできた風の柔らかさに驚いた。ほんの一週間ほど前までは、むわりとした熱風だったのに。いまわたしの肌を撫ぜる夜風は、冷たいとはいわないまでも、秋が感じられる心地よいものになっていた。耳をすますと聞こえてくるのは虫の声。いつのまにか、蝉の大合唱から鈴虫の演奏会へと、季節は移り変わっているらしかった。はじめてレノと会った日は、夜でも熱気が肌にまとわりついていて、買ったばかりのペットボトルはすぐに汗をかいてしまうような日だったのに。あれから一週間、あっという間に過ぎ去ってしまった。わたしの休暇も、今日で終わりだ。そして、レノとの時間も。――今日は、レノが元の世界に帰る日だ。

「名前が、好きだ」

 そう言って、わたしを見つめたレノの表情が、昨日からずっと頭を離れてくれない。わたしの手を握ったまま、俯いてしまったレノに、かける言葉がひとつも見つからなくて。「レノ、帰ろう」呟きに反応しないその手を引いて、自宅まで連れて帰ってきたのだった。会話はなかった。玄関の扉を開ける直前、レノがわたしの名前を呼ぶまでは。

「この扉をくぐったら、今までみたいにして欲しい。いつもみたいに、どうでもいいこと話して、くだらねえことで笑って」
「レノ、」
「オレが、帰るまで、いつものオレたちでいたい」

 そう言って哀しそうに笑ったレノに、NOとは言えなかった。だから、どんなにレノが辛そうにしていても、どんなにその笑みが取り繕われたものであっても、わたしは一切を指摘しなかった。できなかった。初日にあれだけ完璧な笑みを貼り付けていたレノが、いま、どれだけの思いで無理して笑っているのか、知ってしまったから。遅い時間だったけれど、レノがお腹が空いたと強請るので、ありあわせの野菜炒めを作って、向かい合って食べた。そうして、お風呂に入って、ベッドへと潜り込んだけれど。やっぱり夜は眠れなかったし、今日の朝も寝坊してしまった。珍しいことに、今朝はわたしよりもレノの方がお寝坊さんだった。リビングの扉を開けた音で目覚めたらしいレノの、寝ぼけた顔を見るのは初めてで、そのあどけなさにくすりと笑ってしまった。もう昼食といっていいくらいの、遅い朝ごはん。外出のキャンセルを提案したのはレノだった。「名前が作ったものが食いてえ」わたしが作った朝食兼昼食――今日はアジの開きとお味噌汁、茹でたほうれん草だった――を食べながらそうのたまったレノに、思わず箸が止まる。どうしよう、夕飯はリクエストのハンバーグだとして、ずっと肉をこねているわけにもいかない。すこし考えてから、ああ、と思い立った。そういえば、ごはん以外のものはレノに作ったこと、ないかも。例えば、お菓子とか。

「じゃあクッキーでも焼いてみる?」
「くっきー?」

 そうして、クッキー作りが始まったのである。近くのスーパーで材料を揃えて、クッキーのタネを作る。せっかくなのでプレーンとココアの二種類を作ることにした。型抜きをレノにも渡して、一緒に生地をくり抜いていく。真剣なその横顔に、ずくりと心臓が呻いた。もう当たり前になったこの距離が、明日には考えられないくらい離れてしまっているなんて、想像することすら難しい、気がした。ぐらり、と揺れそうになる心を必死で打ち消す。何も変わらない。明日からまた、仕事に忙殺される日々が始まる。久々の出社だ、リズムを掴むまで時間がかかるだろう。でも仕事は待ってくれないから、きっと大量に溜まった案件を片付けなきゃいけないだろうな。ああ、それから、忘れてた、彼もいたんだった。まあ、マサルとは部署が違うから、直接会うことはないと思うけど。なんだか悪いことをしてしまったなあ。レノに殴られた頬は大丈夫だろうか。腫れてはいるだろうけど、さすがに骨は折れてないよね。あんな風に殴ったら、拳の方も痛めてしまいそうだけど、レノは大丈夫だったのだろうか。そうしてまた、レノのことを考えている自分に気がついて、愕然とした。もやもやとした、言い様のない感情をぶつけるように、型抜きの終わったタネをこね直してめん棒で伸ばす。ひとつ、ひとつ、型を抜いていくたび、レノとの別れの時間が近づいていくようだった。笑ってさよならを言えるだろうか。ありがとうと、さよなら、を。じんわりと瞼が熱くなったので、慌てて頭を振った。「名前?」型抜きしたクッキーをオーブンシートの上に並べていたレノが、わたしを見上げる。なんでもない、と首を振って、またタネをぐしゃりと丸める。レノを拒絶したわたしに、泣く資格なんて、あるはずもなかった。

「……クッキー、食べちゃおうかな」

 思い出していたら食べたくなった。夜空に向かってぽつりと呟いてから、ベランダの窓を閉める。テーブルの上、とっくの昔に冷めているクッキーをぱくりとつまんだ。レノにとっての初めてのクッキー作りは、相当楽しかったらしい。膨らみすぎて隣とくっついてしまった動物のクッキーを、ケタケタ笑いながら食べていたレノを思い出す。あんなにたくさん食べたのに、夕飯のハンバーグもぺろりと平らげてしまうのだから、育ち盛りって恐ろしい。そのレノは、いま、わたしの寝室に、閉じこもってしまっている。リビングにはわたししかいない。あまりにも寂しくて、テレビをつけたのだけれど、うるさいだけでまったく頭に入ってこなかったので、すぐに消してしまった。おかしいな、わたし、バラエティ番組、結構好きだったんだけど。一人で見ても、なにもおもしろくない。キッチンテーブルに腰掛けて、ぱくり、とまたクッキーを口に放り込む。数分前、わたしをまっすぐ見つめてきたレノの顔を思い出した。

「一人になりたいんだ。寝室、貸してくれよ、と」 

 今までレノがそんなことを言ってきたことがなかったので、思わずその顔を凝視してしまった。夕食後、珍しく先にお風呂に入ったレノの髪から、ぽたりと雫が落ちる。考え事をしたい、とそう言ったレノは、「あと、ちょっと眠ィ」と苦笑した。レノが帰ってしまうまでは一緒の空間で過ごすんだと、あたりまえのように思っていたわたしは、ショックを受けた顔をしていたに違いない。慌ててレノが「鍵は開けとくから、10時になったら起こしてくれよ」それから、話をしよう。そう、有無を言わさぬ口調で述べたので、思わず頷いてしまった。サンキュ、と寝室に消えていったレノを見送って、そうして、ぼーっとしたまま、時間が経過してしまっていた。本当は早くお風呂に入らなきゃいけないのに、身体が思うように動かない。レノが、あと数時間でいなくなってしまうという、逃れようのない事実が目の前に横たわっていて、それに対して動けない自分が、信じられなかった。だめ、とにかく、お風呂、入らなきゃ。最後のクッキーを口に入れて、もごもごと咀嚼し、飲み込む。重い身体をなんとか動かしてお風呂の準備をし、洗面所に入ってから気づいた。ああ、レノ、髪乾かしてなかったな。寝る前に乾かさないと、また風邪を引いてしまうかもしれない。まだきっと寝ていないだろうし、ドライヤーだけでも手渡しておこう。風呂場の電気はつけたまま、ドライヤーを持って寝室へと向かう。扉を、静かにノックした。返事はない。寝てるのだろうか。だとしたら、起こすのも可哀想だ。ちょっと様子だけ見てみようと、できるだけ音を立てないように、ドアノブを握って扉を開ける。電気は消えていたが、カーテンは開いているようで、月明かりに照らされて部屋全体がふんわりと明るい。レノ、と声を掛けようとして、しかし、開いた唇から漏れたのは小さな呟きだった。

「う、そ……」

 わたしの言葉を拾ったレノが顔を上げ、驚いたようにわたしを凝視する。「お前、風呂、入ったんじゃ、」レノの言葉が、頭に入ってこない。ベッドに腰掛けたレノの服装は、初めて会ったときに着ていたものだった。洗濯しても落ちないほどの汚れだったけれど、レノのだからと捨てずにとっておいたもの。それが、透けていた。服だけではない。脚も、靴も、腕も、髪も、顔も。レノの全てが、淡く光って、そうして、透けて、部屋の壁を映し出していた。部屋が明るかったのは、月明かりのせいなんかじゃない。彼自身が光って、そうして、消えようとしていた。

「うそ、レノ、だって、まだ、時間」
「……ごめん、オレ、嘘ついてた」

 本当は、もう時間がねえんだ。
 こっちの世界にやってきたのは夜の9時だったこと、いつも刺青の刻印が変わるのもその時間だったこと、だから、きっと消えるなら今日の午後9時だと思っていたこと。申し訳なさそうにそう告げるレノに、言葉を返すことができない。そんな、だって、わたし、まだ、言いたいことがたくさんあって、話したいことが、もっともっと、聞きたいことが、たくさん。

「最後くらいは、迷惑かけねえようにって、思ったんだけどな」
「そんなこと、」
「迷惑ばっか、かけてごめんな、名前」
「っ、迷惑なんて、思ったこと、ない!」

 わたしの叫ぶような声に、レノは目を見開いた。アクアマリンのような澄んだ瞳。それを見つめたらもう、身体が勝手に動き出していた。体当たりするように、レノに抱きついて、その背中に手を回した。伝わってくる温もりに、目頭が熱くなる。触れられる。あたたかい。まだ、確かに、レノはここに存在していた。ぎゅうぎゅうと思い切り抱きしめて、肩に顔を埋める。少し肉のついた背中。出会った頃はガリガリだった。態度も悪くて、素直じゃなくて。すぐ人を試すし、騙そうとするし、わざとらしい態度だってたくさんとってた。でも、ご飯を口いっぱいに放り込んだときの幸せそうな顔や、拗ねたような表情、お祭りにはしゃぐ顔、楽しそうな満面の笑み、たくさんのレノを見せてくれるたびに、レノとの距離が縮まって行くのがわかって、本当に、本当に、嬉しかったのだ。救った気でいたけれど、救われていたのはいつだってわたしだった。レノがいてくれたから、この一週間は、わたしにとって、かけがえのないものになったのだ。

「レノが、この世界に来てくれて、わたしの元にきてくれて、本当によかった」
「名前、」
「ありがとう、レノ、わたしと一緒に、いてくれて、ありがとう、」
「名前っ」

 一度、痛いくらいに、ぎゅうとわたしを抱きしめたレノが、わたしの肩を掴んで、身体を引き離した。そうして、その手が、震えるわたしの両手を掬い上げる。するり、と指先が絡まって、優しく握られた。膝立ちのわたしよりも、ベッドに腰掛けたレノの方が、視線が高い。見上げると、眉根を寄せて、哀しそうに目を細めたレノが、わたしを見下ろしていた。身体の向こう側、窓から差し込む月明かりに照らされたレノの瞳から、ぽろりとひとつ雫が落ちた。

「レノ、」
「好きだ、名前」

 二度目の告白も、心臓を掴まれたように、甘くて、痛くて、切ないものだった。

「好きだ、名前、愛してる」
「れ、の、」
「オレがこの世界で、名前と出会ったのは、きっと意味がある。名前と出会えてよかった。あんたがオレを拾ってくれて、一緒にいてくれて、嬉しかった。他の誰でもない、あんたでよかった」
「ありがとう、レノ」
「名前、名前、好きだ、」

 はなれたくない。はらり、はらり、とレノの頬を伝う涙に、嗚咽がせり上がってくる。ぐっと喉に力を入れて、唇を噛み締めた。だめだ、わたしが泣いてはいけない。わたしが、泣く資格なんか、ないんだ。ぎゅうぎゅうとレノがわたしの手を握り締めて、それに応えるようにわたしも指先に力を入れた。でも、わたしを見つめるレノの視線に耐えきれなくて。俯いた先、絡まり合ったお互いの手に息を呑んだ。

「れ、の……」

 声が震える。指先がじんわりと麻痺するような感覚。レノに触れているわたしの指先が、レノと同じように淡く光って、そうして、微かに、透け始めていた。はっとして見上げると、わたしの異変に気づいたレノも、目を見開いた。そうして、その澄んだ瞳を、まっすぐわたしにぶつけてくる。繋がった指先がぴくりと動いて、レノの手から力が抜けた。このまま。このままわたしが手を握っていれば、きっとわたしはレノと一緒に彼の世界に行けるだろう。わたしが? レノの世界へ? 突き付けられた選択肢に、脳内が混乱する。レノと一緒に、レノの世界へ、行ってどうする? こっちの世界を捨てる? そんなことできない。両親だっているし、仕事だってあるし、友達だって、それに、それに。本当に? できないのだろうか? できないと思い込んでいるだけではないだろうか。レノのことが本当に好きなら、すべてを捨てることが、できるに違いない。こちらの世界を捨てて、レノを選ぶ? そんなこと、わたしにできるのだろうか。

「名前、」

 震えた声で、レノがわたしの名前を呼んだ。澄んだアクアマリンが、熱を孕んで、切なげに揺れている。オレを選んで。全身全霊でそう訴えている彼の、その指先が、するりとわたしの手を撫でた。こんな時ですら、レノはわたしの決断を静かに待っていた。わたしに絡まる指先は、振り払おうと思えば振り払えるような力で握られていて。子どもらしからぬそれに、ずくりと心臓が痛む。いつだってレノは、わたしを尊重してくれた。自分の意見を押し付けたりせず、わたしの考えを受け入れてくれた。それに、いつだって甘えていたのだ。そして、今も。わたしは絡まった両手を、ゆっくりと引いた。レノの瞳が見開かれて、そして、悲しそうに伏せられる。わたしの手は、小刻みに震えていた。指先だけ触れ合う、レノの手も。呆気なくするりと解けた指を、ぐっと握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、じんわりと痛んだ。レノだったら。レノだったら、間違いなく、わたしの手を離さないでいたに違いない。わたしがレノの世界に飛び込んで、同じように一週間を過ごして、そうして、わたしが、同じように消えかかったら。きっと全てを捨てて、わたしを選んでくれるに違いなかった。その、真っ直ぐな気持ちが、恐ろしかった。きっと。きっとそれは子ども特有のもので、大人になるにつれて薄れていくものだ。そうしたら。いつかレノは、わたしの手を離してしまうかもしれない。いや、優しいレノのことだ、わたしの手を離したくても、離すことを躊躇してしまうかもしれない。そんなこと、耐えられない。だから、だから。結局わたしは、彼を選べなかったのだ。レノの気持ちを、信じることができなかった。傷つくことを恐れて、レノを傷つけてしまった。こんなわたしが、レノと一緒にいていいはずが、ない。

「あんた、余計なこと考えてるだろ」
「な、」

 降ってきた声は、芯の通った低い声だった。真剣な表情のレノが、眉間に皺を寄せてわたしを見つめている。涙の跡が光る頬。離れた指先は、今度はわたしの唇に伸ばされた。まるで壊れ物を扱うかのように、小刻みに震えるそれが、優しく唇を撫でる。真正面から向けられる視線、目は逸らせなかった。

「オレはあんたを愛してるし、この気持ちはずっと変わらないってわかってる。あんたがオレを信じられなくても、オレはあんたを信じてる。オレはまだ、ガキだけど、大人になったら、あんたのこと、絶対に、絶対に、迎えに来るから」

 絶対に、と必死に言うレノが可愛くて、目頭が熱くなる。嬉しいよ、レノ、わたし、レノのことが好きだよ。レノのその気持ちとは、違う好きかもしれないけれど、でも、わたし、レノが好きだよ。絶対に、口に出すつもりのない言葉を心のなかで呟いてから、小さく笑った。大人はずるいね。

「レノが大人になったら、わたし、おばちゃんになってるよ」
「それでもいい。あんたなら、いい」

 ありがとう。言葉は声にならなかった。小さくレノが「キス、してもいいか」と言うものだから。返事の代わりに、瞼を下ろした。レノが近づく気配。震える吐息が唇にぶつかって、そして――。温もりは、最後まで、落ちてはこなかった。瞼を上げると、そこには月明かりに照らし出されたベッドと、丁寧に畳まれた服。それから、その上に置かれた、小さな紙切れ。震える手を伸ばして、メモの端を掴む。白い紙に踊るアルファベット。初めて見る、レノの文字だった。Thank you for having discovered me. You are the world to me.――オレを見つけてくれて、ありがとう。あんたはオレの全てだった。ゆらゆらと、見慣れない筆記体が滲んで揺れる。ぽとり、視界は一気にクリアになって、そうしてまたすぐに歪んだ。ひとつ落ちたらあとはもう、ぼろぼろと止めどなく涙が溢れてくる。紙切れを胸に抱いて、小さく小さく名前を呼んだ。

「レノ、」

 瞼を閉じれば、レノの澄んだ瞳が、すぐさま思い出せるのに。もう彼はここには居ないし、そして、再び会うことはないだろう。わかっていたはずなのに、どうしてそれがこんなにも苦しくて、悲しくて、切ないのだろうか。嗚咽を上げながら、ベッドに突っ伏した。微かな温もりに、また涙が溢れてくる。レノ、レノ、レノ。あの瞳を、わたしは一生忘れることはないだろう。それは恋ではなかったけれど、確かにそこには愛があったのだ。レノ、ありがとう、――さよなら。


200918



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