沈黙の金曜日
独特な匂いが浴室に充満していた。上半身裸のレノはバスタオルを羽織ったまま、ちょこんと風呂椅子に座っている。髪を包んでいたラップを少し外して、染まり具合を確認する。うん、良さそうだ。ブリーチしないとダメかな、と思ったけれど、意外と大丈夫そうなので安心した。ぱらり、と巻いていたラップを全て取って、レノに浴槽の中へ頭を突き出すように指示する。シャワーヘッドを手に取って、コックを思い切り捻った。
「一回洗って、流したらおしまいだからね」
「へえ、こんなんで染まるのかよ」
「本当は、脱色した方が綺麗に色が入るんだけど」
お湯の温度を調節してから、ゆっくりとレノの頭にかける。透明なお湯は、すぐさま赤っぽいピンク色になって、浴槽内の排水溝に流れていった。丁寧にすすいでから、シャンプーを手に取って両手に馴染ませて、レノの髪を洗っていく。指の腹を使って、マッサージするように揉み込んで。こめかみとうなじのあたりは、特に念入りに地肌を擦る。もこもこした泡はやっぱり淡いピンク色で、それが可愛くてふふ、と笑いが零れた。「あー、」とレノが言葉にならない声を出す。
「すげぇ、気持ちいい、ぞ、と」
「マッサージ? それはよかった」
「こんなこと、他人にされたことねぇよ」
それは、美容室に行ったことがない、ということだろうか。それとも。疑問は胸の内にしまっておいて、お湯を出して手についた泡を流す。そして、ピンク色のもこもこ泡も、シャワーで流してしまう。流し残しがないように、耳にお湯が入らないように、丁寧に、丁寧に。くすぐってぇ、とレノが身動いだので、こら、と笑いながら叱る。流し切ったら、トリートメント。今度はあまり地肌に触れないように気をつけて、それもシャワーで流してしまう。最後に肩にかけたバスタオルで頭を拭いて、出来上がりだ。
「鏡、見てみて。どうかな」
「おー、すっげ、全然印象ちげえな」
「なーんか、やんちゃ坊主! って感じだね」
「……褒めてんのか? それ」
拗ねたような声だったけれど、鏡越しに合った視線が嬉しそうだったので、ついこちらまでにこにこ笑ってしまった。よかった、ずっと下降気味だった気分は、やっと上向いてくれたようだ。昨日からの発熱は、今朝はすっかり治まって、いつも通り元気溌剌のレノだったのだけれど。すぐさま出かけようとしたレノと、断固外出拒否のわたしとで、一悶着あったのだ。昨日あれだけ熱を出しておいて、炎天下に出かけるなんて正気の沙汰じゃない。絶対に家から出さないというわたしの決意に、折れたのはレノの方だった。そして、ヘソを曲げたのだ。盛大に。せっかくの異世界なのに部屋に篭っているのがもったいない、というレノの主張を「家主だから」で強引にねじ伏せたのがいけなかったらしい。ソファに座ってクッションを抱えるレノは、意地でもこちらを見ないつもりらしかったので、説得する代わりに毛染め剤を投げたのだった。鏡をまじまじと見ながら、髪の毛を弄るレノは上機嫌だ。ちょろい。ちょろくて、かわいい。
「はい、お客さまァ、次はドライヤーですよ」
「お、頼むぞ、と」
リビングに移動して、ドライヤーを手にソファに座る。わたしの後ろをついてきたレノが、目の前に座った。ドライヤーのスイッチを入れて、レノの髪を乾かしながら、染まり具合を確認する。うん、ムラもないし、いい感じだ。色を落さなかったので、目の覚めるような赤ではないけれど、少しくすんだその色は、太陽に照らされるときらりと光った。綺麗だ。レノは赤がよく似合うなあ。ぽつりと呟いたら、「あ? なんか言った?」とレノがこちらを振り向いた。なんでもないよ、と首を振って、ドライヤーの温風を強くする。かすかに聞こえる、レノの鼻唄。心地よい、午後だった。
***
「なぁ、夕飯なに?」
「うどんだよ」
「えー、またかよ、と」
カウンターキッチン越しにわたしの手元を覗いたレノが、不満そうな声を漏らす。無理もない。昨日から、おかゆ、うどん、そうめんのローテーションだった。消化にいいものを、と考えた結果だったので、昼食まではレノも文句を言わずに食べていたけれど。どうやら限界が近いらしい。それもそうか。育ち盛りの子どもには物足りないに違いない。ちょっとした申し訳なさはあるけれど、もううどんを茹で始めているので諦めてもらおう。
「豚しゃぶうどんだから。お肉もあるし、さっぱりしてて美味しいよ」
「名前の飯、なんでもうまいけどよー……」
「じゃあ、明日のリクエスト受け付けるよ。なにか食べたいものある?」
「肉!」
にっこりと笑ったレノが元気よく答えたので吹き出してしまう。肉かあ。なにがいいかな。ちょっといい肉を買ってステーキでもいいし、ハンバーグでもいいかもしれない。冷蔵庫の余り物を食べたときに随分気に入ったようだったから、大きいのを焼いてあげようかな。そこまで考えて、そうだ、と思い出す。明日の夜は出かけようと思っていたのだった。
「レノ、明日、海に行ってみる?」
「海?! 行く!」
昼間は日差しが強いだろうから、夕方から行くのがいいだろう。手持ち花火を買って、砂浜で花火をするのもいいかもしれない。夕飯は、帰りにどこかのお店で食べてこよう。せっかくだから、お肉の美味しいお店を探しておこうかな。
「あ、でも、病み上がりだから海には入れないよ?」
「えー、なんでだよ」
「そもそも遊泳禁止のところだし」
「ちぇ」
「でも、波打ち際を歩くくらいなら大丈夫だから、タオルは持ってこうね」
「よっしゃ!」
ぴんぽん、というチャイムの音に顔を上げる。誰だろう、と思ってから、そういえば実家から連絡が来ていたことを思い出す。確か、梨を送ったとかなんとか。メッセージを受け取ったのは今朝なのに、ずいぶんお早い到着だ。手をタオルで拭って、鍋を見遣る。火、つけっぱなしでもいいか。荷物受け取るだけだし。
「レノ、荷物届いたから受け取ってくるね」
「オレ、行こうか?」
「大丈夫。吹きこぼれないように鍋見てて」
ぴんぽん、と催促するようにまたチャイムが鳴ったので、早足で玄関へと向かう。ずいぶん気の短い配達員さんだ。次の配達予定が詰まっているのだろうか。はぁい、と大きめの声で返事をして、サンダルを突っかける。下駄箱の上に置いた籠からシャチハタを取り出して、鍵を開けて、扉を押しひらいた先、思いもしない人物に、すべての思考が停止した。優しい瞳、ブラウンに光るそれが、熱を持ってわたしを見下ろしている。どうして。
「マ、サル、」
「名前、会いたかった」
唇がわなないて、言葉は声にならなかった。一瞬の硬直の隙に、マサルがするりとその体躯を扉から滑り込ませる。腕が、伸びてきたと思ったら、ぎゅっと、抱きしめられていた。わたしの首筋に顔を埋める、彼から漂う香水の匂いに、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられた。懐かしい、匂いだった。抱きしめ返すことができないわたしの手から、ぽろりと印鑑が床に落ちる。どうして。頭を巡るのはあのメッセージ。“俺たち、やり直せないかな”。
「名前、名前、」
「ま、待って、ねぇ、離して、」
何度も抱かれた腕の中、身動いで抵抗したけれど、マサルはびくともしない。それどころか、さらにぎゅうぎゅうとわたしを抱きしめてくる。髪の毛が、頬に当たってちくちくした。吐息をぶつけるように、彼は口早に思いを吐き出し続ける。
「ごめん。謝って許されるわけじゃないって、わかってる。でも、駄目なんだ、どうしても」
「あ、やだ、いた、」
「君じゃなきゃだめだ、名前、好きだ。愛してる」
俺ともう一度やり直してほしい。痛いほど抱きしめられたまま、耳元でそう囁かれて、思わず抵抗を止めてしまった。それを、了承と捉えたのか。……それとも、わたしのことなんて、最初から見えていなかったのか。解放されたと思ったら、するりと頬を包む手のひらに上を向かされ、唇を重ねられた。突っぱねようとした腕ごと再び抱きしめられて、身動きが取れない。頬を包んでいたそれが、後頭部に回されて、そして、ぬるりと侵入してくる生温かい舌。ぞわぞわと鳥肌が立った。いやだ、気持ち悪い、やめて、助けて、誰か、――。
「やぁ、やめ、」
「名前ー! おまえ、どんだけ時間掛かって、」
突然響いた声に、マサルが驚いたように唇を離した。反射的に、声のした方へ顔を向ける。廊下の先、リビングの扉の前に、目を見開いたレノが立ち尽くしていた。その姿を見た途端、わたしの両眼が熱くなって、ぼろぼろと涙が溢れてしまった。れ、の。声には、出していなかったのに。れの、れの、――たすけて。わたしと目が合った瞬間、レノの形相が変貌する。見開かれていた瞳が、鋭くわたしたちを、マサルを、睨みつけた。瞬時に状況を理解したのだろうレノは、きっと、頭で考えるより先に身体が動いたに違いない。一足飛びでわたしたちに近づき、左手を振りかぶって、そうして、思い切り、マサルの頬をぶん殴った。無防備だったマサルはレノの殴打をもろに受け、床へと倒れ込む。後頭部を扉にしたたかにぶつけたマサルが痛みに憤り、頭を押さえながら大声で怒鳴った。
「ってぇな! なんなんだよ、一体!」
「……てめぇ、名前に何した」
「あ? っぐ、」
「名前に何したって聞いてんだよ!」
マサルの上にのしかかったレノが、膝で鳩尾を圧迫する。片脚でマサルの腕を封じ、そうして、レノの左手が、一切の迷いなく、彼の二倍は太い首を、押さえつけていた。気道を圧迫されたマサルが、目を白黒させてレノを見つめている。その様子を見下ろすレノの表情に、全身の産毛が、逆立った。激情に駆られたレノの、瞳孔が開き切っている。祭りの時の比ではない。鬼のような、形相。殺気立ったその顔に、身体が震えた。しら、ない。知らない、こんなレノ、わたしは、知らない。血の気が引く。知らない、知らない、――こわ、い。身体の内側でさざめく感情。それは、間違いなく、レノに対する恐怖だった。
「ぐる、じ、はな、ぜぇ、」
「離すかよ。おまえは、おれが、」
「レノ!!」
自分の口から飛び出した大声に、喉がキンと傷んだ。はっと顔を上げたレノが、驚愕の眼を見はって、わたしを見つめて、そうして、その整ったかんばせを絶望に歪ませる。でも、わたしは、レノの視線を受け止めることができなかった。顔を背けたわたし、俯いたレノは呆然とマサルを見下ろして、それから、先程の俊敏さなど微塵も感じさせないほど、ゆっくりと、彼の上から退いた。咳き込んだマサルが、喉元を押さえながら身体を起こす。顔を真っ赤にした彼はレノを睨みつけたけれど。マサルが何か言葉を発する前に、わたしは唇を開いた。
「帰って」
「おい、名前、なんだこの、ガキ、」
「帰って!!!!」
「っ、ああ、そうかよ! もう来ねえよ!!」
叫ぶわたしにマサルはそう吐き捨てて、乱暴に扉を開けて出て行った。階段を踏み締める足音が聞こえなくなって、身体から力が抜ける。ずるずると壁伝いに床へと座り込んで、震える自分自身を抱きしめた。今更になって、恐怖がわたしを襲ってくる。怖かった。マサルの怒声も、レノの瞳も、なにもかもが。
「名前、」
戸惑ったようにレノがわたしの名前を呼んで、そうして、手を伸ばしてくれたのだけれど。その指先が触れる前に、わたしの身体はびくりと跳ねた。視界の端に映るレノの指先が、ぴたりと止まる。ああ、だめ、わたしのばか。レノは、守ってくれたのに。わたしのことを、守ろうと、自分よりも大きい男の人に、立ち向かってくれたのに、そんなレノのことを、怖がってはいけない、はずなのに。ぎゅう、と爪が食い込むほど、自分を抱きしめたけれど、身体の震えは治まってくれなくて。
「名前、……ごめんな」
やさしい、やさしい、声だった。そうして、ひどく傷ついた、声だった。ゆっくりとレノが立ち上がる、その音にさえ身体が竦んでしまって。本当は、言わなきゃいけなかった。「謝らないで」「たすけてくれて」「ありがとう」「うれしかったよ」伝えたいことはたくさんあるのに、どうしたってそれらは一言もわたしの口から飛び出すことはなかった。火、止めとくな。オレはソファで寝るから。そこから動かねえから。囁くようなやさしい声が遠ざかって、ぱたりと扉の閉まる音。堪えていた涙がまた、じわり、じわりと染み出して、わたしの服を濡らしていく。一人きりにしてくれたレノの優しさが痛くて、切なくて、それに甘えるわたしが許せなかった。どうして。いつだってわたしは、弱くて、ずるい。
20909
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