×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



陰鬱な日曜日


 その透き通ったアクアマリンは、わたしの日常を一瞬で掻っ攫ってしまうような、深い輝きを宿していた。一生忘れることのない、夏の終わりの七日間。これは、わたしと彼が共に過ごした、一週間の話である。



***



「う゛ぇ、はあ、やば、吐く」

 世界が回っていた。三半規管を襲う揺れに耐えきれず、雑居ビルの壁に凭れ掛かる。目を瞑ったままバッグを探って、水の入ったペットボトルを取り出した。キャップを外し、煽るようにしてごくりと一口。さっき買ったばかりだというのに、すでに温くなった液体が、食道を通って胃に落ちていく感覚。はあ。おそるおそる息を吐き出して、ゆっくりと瞼を上げる。家まではあと数十メートル。それがひどく遠かった。痛み出した頭を抱えながら、一人で何度目かの反省会をする。飲み過ぎた。やっぱりビールと日本酒のちゃんぽんはダメだったな。大学生じゃないんだから。一緒に飲んでいた友人の呆れ顔を思い出して、溜息。そうして、流れるように、酒をしこたま飲む原因となった男の顔を思い出してしまって、ムカムカとしたものが胃から迫り上がってくる。今度は我慢せずに吐き出した。

「マサルの、ばっかやろー!」

 近くの路地から、驚いたような猫の鳴き声。零時を回りそうな時間帯、大声は大変迷惑だろう。ゴメンナサイ、でもあいつが悪いんです。心の中で呟いて、持っていたペットボトルをごそごそとしまう。八月末、肌に纏わり付く熱気が不快だった。あとは、脳内にこびりついたあの男の笑顔も。フラれたのは二週間も前のことだった。二週間しか経ってない、というべきなのかはわからない。もうすぐ付き合って一年の記念日だね、なんて話していたのに、別れは随分とあっさりだった。しかもあの男、わたしと別れた3日後には、今年入ってきたばかりのかわいい女の子と、二人でご飯に行っていたのだというのだから腹が立つ。やっぱり社内恋愛はするんもんじゃないな。好奇な視線がうざったくて、この一週間は仕事にならなかった。悔しいことに、フラれてからの一週間は凹み過ぎて仕事にならなかった。まあつまり、この二週間は最低限の仕事をしかていないというわけだ。知らん。大きく息を吐き出して、脚を引きずるように歩き出す。日曜日の夜、人はまばらだ。こんなに憂鬱なのは、明日から休みだからだった。遅い夏休み。二週間前までは、涙が出るほど楽しみにしていたそれは、今になってはただただ苦しいだけの時間だった。旅行に行きたいと言い出したのは彼の方だった。一緒に休みをとって、温泉旅行にでも行こう。ここの宿が人気なんだよって、予約までしてくれて、ああ、あの時はまだラブラブだったな、なんて。感傷よりも苛立ちが優って、アスファルトにヒールを叩きつけるようにして歩く。キャンセル料を請求されていないのは、男のプライドか、それともキャンセルしていないからなのか。答えの出ない問題を、ぐるぐる考えてしまうのは、わたしの悪い癖だった。今頃彼は明日からの旅行の荷物を準備しているに違いない。年下の彼女のことを考えながら。苛立ちの波はすぐに引き、やってきたのは悲しみだった。やばい、泣く。見えてきたアパートが涙で滲む。どうしよう、帰りたくないな。家には誰もいない。そんなこと、今は耐えられそうになかった。でも、帰らないわけにもいかないし。でもでも。

「……え?」

 ぐるぐる回るわたしの思考をぶった切ったのは、小さな塊だった。アパートの前、手入れされたばかりの生垣の隅に、彼は座り込んでいた。子ども、だった。多分中学生くらい。もしかしたら小柄な高校生かも。従兄弟を思い出して、だいたいそれくらいだったな、なんてことを考える。え、なに、どうしたの。具合悪い? ていうか、今深夜じゃん。家出? でも、服、ボロボロな気がするし、え、なに、事件? 一瞬でいろいろなことが脳内を駆け巡って、思わず脚を止めて彼を凝視してしまった。わたしに気づいたのか、少年のかんばせが、ゆっくりと上げられる。その鋭い瞳が――透き通った、アクアマリンのような瞳が、あまりにも、綺麗で。思わず息を飲んでしまった。

「……あ、の、」

 なにか話し掛けようと思ったのに、アルコールに侵された頭はうまく回らない。あ、日本語で話しかけちゃったけど、この子、言葉通じるのかな。長い下睫毛と、すっと通った鼻筋。日本人離れした顔の少年は、じっと観察するようにわたしを見つめた。どうしよう、なにも言葉がでてこない。ていうか、早足で歩いたからか、アルコールが回ってちょっと気持ち悪くなってきた。うそでしょ、どうしよう。そんなわたしのことなど露知らず、少年はぱちりと瞬きをしてから「ねえ、オネーサン」とその唇を動かした。綺麗な声だった。一瞬遅れてから、話し掛けられたことに気付いて「え?」なんて気の抜けた返事をしてしまう。あ、日本語、喋れるんだ。

「オネーサンの家、ここ?」
「え、あ、うん」
「オネーサン、オレのこと、一晩買わない?」

 にこり。わたしを見上げるアクアマリンの瞳に、目眩がした。彼の言っていることが、なに一つ頭の中に入ってこない。オネーサン・オレノコト・ヒトバンカワナイ? え、なにそれ、新しい日本語? 理解が追いつかなくて、つい寄ってしまった眉間の皺に、少年が困ったように小首を傾げる。え、まって、なにその顔、かわいい。

「オレじゃだめか、と」

 ダメっていうか、え、買う? って、なにが? どういうこと? わたしが君を買う? ぐるぐると思考が回って、ついには視界も回り出した。そして、胃の中も。迫り上がってくるものを押さえ込むように、慌てて手のひらで口元を押さえる。やばい、ちょっと、いま、無理。

「オネーサン?」
「とりあえず、わたし、家に入るから、その、」

 君も来る?
 そうして、わたしは少年を家に招き入れてしまったのである。



***



 排水溝に流れていく泡を、茫然と見下ろす。酔った頭に、ぬるめのシャワーはひどく心地よかった。日中にかいた汗も流したし、身体はさっぱりとした。気持ちも、前向きに、なったのだけれど。きゅ、とシャワーのコックを捻ってお湯を止める。曇ったガラスを手で拭うと、困った顔の自分自身と目があった。先ほど思い切りトイレで吐いたせいか、アルコール特有の気持ち悪さはだいぶ無くなった。酔いもそこそこ冷めたし、あとはよく水分をとって、ベッドに潜り込めば、すぐに夢の中に入れるに違いない。二日酔いにはなるだろうけど、明日からは夏季休暇だ。何時間だって寝てられる。そこまで考えて、先ほどの光景が頭を過ぎる。ずきり、痛む頭は、アルコールのせいだけではない。わたし、酔っ払って、幻覚でも見たかな。なんか、家の前で、男の子を、見つけて、そのまま、拾ってしまった、気がする。いや、夢かもしれない。だってあのときはすごく気持ち悪くて、アパートの階段を駆け上がって、家のトイレに駆け込んでしまったから。そのあと、すぐにバスルームに来てしまったから。だから、少年が、わたしの後をついてきたのか、それとも、そもそも本当は少年なんて存在していなかったのか、わからないままだ。確認するのが怖いので、いつもより念入りに身体を洗ってしまったけれど。もう洗う場所がなくなってしまったので、仕方ない。観念してバスルームから出ることにする。願わくば、すべてアルコールの見せた夢でありますように。そう願いながら、バスタオルで体を拭いて、ルームウェアに着替えて、リビングへと戻った。

「遅かったな、と」

 やっぱり、居ますよね!!!!!
 わたしは帰宅してからリビングに入っていないから、自分で電気とテレビをつけたのだろう。少年が、ローテーブルの前のソファに腰掛けたまま、こちらを振り返った。薄い茶色の髪がふわりと揺れる。ライトをきらりと反射したのはピアスだろうか。綺麗な瞳が、わたしを射抜いた。え、うそ、やっぱり、夢じゃなかった。まじで? 立ち尽くすわたしに、少年は不思議そうに首を傾げる。それから、その形の良い唇を開いた。

「なあ、オレもシャワー浴びたい」
「えっ?!」
「だめか?」

 悲しそうに眉を下げられて、うっと言葉に詰まってしまう。なんか、昔こんなCMあった。子犬がぷるぷる震えながら、潤んだ瞳で見つめてくるやつ。すごく可愛くてお茶の間で話題になったけど、まるでそのわんちゃんのように、目の前の少年の瞳がうるうるとわたしを見つめている。でも。脳内で、至極真っ当なわたしの声が響く。どう見ても未成年の男の子を、とっくに成人した女が家に連れ込んで、シャワーまで浴びさせて、そんなこと、世間様に知られたら、どうなる?! 葛藤は、少年が立ち上がったことによって強制的に終了した。わたしの近くに寄ってきた彼が、その細い腕を伸ばしてくる。反射的にびくりと震えたわたしに、気づいたのか否か。少年の指先は、わたしの服の裾をちょんと摘んだ。わたしより、少し低い位置で、アクアマリンがきらりと光る。息を飲んだ。

「なあ、シャワー、だめ?」
「……どーぞ」
「ん、サンキュ」

 柔らかく微笑んで、少年はバスルームに消えていく。扉が閉められて、いつのまにか止めていた息を大きく吐き出した。び、っくり、した。ちょっとあざとすぎる行為に、頭が痛くなる。それから、先ほど見えてしまったものに、頭を抱えた。細い腕、汚れきった服の下に見えた、大きな青痣。虐待、だろうか。やはり、家出か? 警察か、それとも、専門機関があるだろうか。児童相談所? わからない、調べなきゃ。テレビを消して、リビングを見回す。一応確認したけれど、家の中を物色された形跡はなかった。鞄の中のスマホも財布も無事だ。玄関の鍵も律儀に掛けてあった。ということは、物取りの可能性はない、ということだ。泥棒だったらとっくにトンズラしているに違いない。考えることを整理するために、キッチンで水を飲む。とにかく、少年がシャワーから出たら、大人のわたしがしっかりと話を聞かなければ。

「あ、そうか、着替え」

 流石にわたしの服ではちょっと小さいだろう。身長はそれほど変わらなくても、骨格がもう女のそれとは別ものだ。仕方ない。寝室のクローゼット、奥の方にしまっていた段ボールを取り出す。捨てようと思って、二週間も経過してしまったその不要物の中から、小さめのTシャツとハーフパンツを取り出す。こんなところで役立つとは思わなかったな。流石に新品の下着はないので、1日くらいは我慢してもらおう。脱衣所を覗くと、まだ少年はシャワーを浴びている最中のようだった。一応声をかけて、着替えを洗濯機の上に置く。それから、スマホを持ってソファへとダイブする。一人暮らしの部屋に似つかわしくないこのソファは、アイツと付き合ってから買ったものだったな、そういえば。折半して買ったけど、もちろん返すつもりもお金を払うつもりもない。ものに罪は無いし、ありがたく使わせてもらう。ごろりと仰向けになると、自然とまぶたが落ちそうになって、目を擦った。やばい、流石にこの状況では眠れない。スマホを持ち上げながら、何から調べたらいいかと思考を巡らす。子ども、保護、虐待。……うーん、なんか違うな。やっぱり警察かな。でも急ぎじゃないのに110番にかけるのは、ちょっと勇気がいるし。相談窓口とか無いのかな。ぽちぽちと思いつく言葉を検索欄に打ち込んで、ホームページを調べてみる。ピンとくるものがないなあ、なんて思っていたら、リビングの扉が開く音。あ、少年、シャワー終わったんだ。着替え、どれだかわかったかな。

「ねえ、着替え、……っ!?」

 飛び込んできた光景に、思わずスマホが手から滑り落ちた。ぽたり、少年の髪から垂れた水滴が、彼の素肌を滑る。なぜか、少年は、上裸だった。下は、かろうじてバスタオルで隠されてはいたけれど。ていうか、え、あれ、なんで、服、着てないの。疑問も、言葉にはならない。少年がぶるりと頭を振ると、水滴がまるで真珠のように飛び散った。それから、深いアクアマリンの瞳が、わたしを射抜く。心臓が、どくりと跳ねた。

「お待たせ」

 その声は、どうしてか、ひどく艶を帯びていた。少年がわたしに近づくと、その身体がより鮮明に見て取れた。それに、絶句する。傷だらけの、身体だった。筋肉はついているけれど、しっかりした栄養を取れていないのか、あばらがうっすらと浮き出ている。薄い胸板。痣は、腕だけではなかった。お腹と、肩。消えかかったものもあるようだった。それから、小さな切り傷が、たくさん。見たことのない、傷だった。ただ転んで擦ったような傷ではない。なにか、鋭利なもの、例えば、包丁とか、ナイフとか、そういった、刃物で切ったような、傷だった。あまりの衝撃に、凝視することしかできない。何も言わないわたしに、少年は妖しく微笑んだ。ぎしり、いつの間にか少年の膝が、ソファに乗り上げている。目の前に綺麗な瞳が迫って、やっと現状を理解した。

「え、ま、」

 理解したけれど、遅かった。柔らかくて熱いものが、唇に触れる。少年の唇だった。目の前、焦点が合わないくらい近くに、少年の伏せられた長い睫毛が見える。え? なんで? わたし、キス、してるの? 混乱は、少年が舌を出したことで加速した。ぬるりと湿り気を持ったそれが、唇の形を確かめるようにねっとりと這わされる。驚いて、反射的に瞼を閉じると、少年はそれを見ていたかのように小さく笑った。わたしの唇を堪能した舌先が、ぐい、と口内に捻じ込まれる。ぁ、と小さく漏れた声は、すぐさま彼の口に飲まれた。侵入してきた舌は、すぐわたしのそれを絡めとって、優しくぬるぬると擦り付けてくる。久々の感覚に、ぞくりと背中を駆け上がるなにか。嘘でしょ、いま、わたし、なにが、なにを。官能的な舌遣いに、思考がまとまらない。少年の無骨な手が、わたしの脇腹をするりと撫であげた。ぞく、と走ったのは紛れもない不快感で。反射的に、少年の肩をぐいと突くように押し退ける。わたしの口内で暴れていた舌は、あっさりと去っていった。はあ、という甘い吐息が漏れる。濡れた口元を拭うように手の甲で隠して、目の前の男を凝視した。べろり、赤い舌がその唇を舐めている。不機嫌さを隠すことなく、少年はわたしを見下ろした。え、う、嘘でしょ、なに、いまの!!

「な、いま、なんで」
「なんだよ、と」
「それ、わたしの台詞なんだけど?! いま、なんで、キス、?!」
「期待したんだろ、こーゆーこと」
「はあ?! してな、はぁ?!」
「うるせ……」

 先ほどの可愛らしさは何処かへ行ってしまったのか、面倒くさそうに少年は顔を顰めた。片手で耳を押さえる様子は、生意気なそれで。な、なんなんだ、この餓鬼は!! 今更、顔に熱が集まってくる。わたし、キスされた、こんな年下の子どもに、しかも、舌まで入れられて、わたし、嘘でしょ?! なにが起こってるの?! ねえ誰か教えて!!

「続きは? するの? しねえの?」
「だ、ダメに決まってるでしょ! 君、やっぱり自分のお家に帰りなさい!」
「無理だな」
「なんでよ!」
「だってオレ、この世界の人間じゃねえし」

 じっとわたしを見つめたまま、少年が淡々とそう述べた。それを見つめ返すわたしは、相当間抜けな顔をしていたことだろう。これが、忘れられない一週間の始まりになるなんて、この時のわたしはまだ、知らなかった。



200827


[ 1/9 ]
←