忘れられない、夏
蝉が鳴いていた。クーラーの効いた部屋で食べるアイスはどうしてこうも幸福感を増大させてくれるのだろうか。ミルクたっぷりのアイスはこの夏の新発売で、濃厚なバニラと苺の果肉がたまらない一品だ。スプーンを咥えながら、テレビのチャンネルをかちゃかちゃと回す。平日昼間の番組が、こんなにもつまらないものばかりだとは知らなかった。結局、ぷつりと電源を落としてしまう。わたししかいないリビングは、シンと静まり返っている。最後の一口をぱくりと食べて、ローテーブルにカップとスプーンを置いた。ソファにだらりと寄りかかって、天井を見上げる。暇だ、暇すぎる。夏季休暇二日目でこれでは、先が思いやられる。昨日は丸一日寝て過ごしただけで、休暇らしいことは何一つやってない。こんなことなら、実家にでも帰ればよかったな。テーブル上のスマホを確認したけれど、誰からの連絡も来ていなかった。母親から電話があったのは三日ほど前のことだった。「名前、今年の夏は帰って来るでしょう?」そうだ、本当は、去年も帰省する予定だったのだ。一週間の夏季休暇、前半は彼氏と温泉旅行、後半は帰省の予定だった。それが、全て吹っ飛んでしまった。まさに、運命のいたずらのような出来事のせいで。
「レノ、」
小さく呟くと、忘れたはずの痛みがツキンと胸を走る。瞼を下ろせばすぐにあの綺麗な瞳を思い出すことができた。元気でやっているだろうか。ご飯はお腹いっぱい食べれているのだろうか。風邪はひいていないか、怪我はしてないか、しっかりと、元の世界で、生きているのだろうか。心配は尽きることがない。最後の、わたしをまっすぐに見つめる瞳を、忘れたことは一度もなかった。あれから一年たった今も、こうやって目を瞑れば、瞼の裏にすぐに思い描ける。あの華奢な身体が、くすんだ赤色が、何処かに居ないかと、つい探してしまうのは、もうなくなった。それでも蝉の声を聞くと、あの一週間を思い出してしまう。だから、実家には帰らなかった。もしかしたらまた、レノに会えるんじゃないかって。あの、にやりとした笑みが、また見れるんじゃないかって。そう思ってしまったから。いつだって、仕事帰り、アパートの下に彼がいるんじゃないかって、期待してしまうのだ。もう一年も経つのに。何度もやめようと思ったのに、こればかりはどうしようもなかった。
「やっぱり、実家、帰ろうかなあ」
返事の代わりに鳴ったのは玄関のチャイムだった。ああ、そうだ、梨だ。実家に帰らないという話をしたら、母親が今年の分を送ると言っていたのだった。はあい、と大声で返事をして立ち上がる。届いたことを連絡するついでに、帰省の相談をしてしまおうか。どうせ何もすることがないのなら、実家にいた方が電気代もかからないし、なによりご飯が出て来るのが有難い。そんなことを考えていたら、急かすように再度チャイムが鳴った。暑いから苛立っているのだろうか。炎天下のお仕事、ご苦労様です。下駄箱の上の籠からシャチハタを取り出して、玄関の鍵を開ける。すみません、の言葉は、しかし、すぐに引っ込んでしまった。
「……よォ」
「え、あ、」
だ、誰? 玄関に立つ男を凝視する。黒いスーツ、ワイシャツの袖は捲られ、胸元がこれでもかというくらいに開いている。猛暑のせいか、肌には玉の汗が光っていた。視線を上げると、整ったかんばせ。スッと通った鼻筋と切れ長の瞳は日本人離れしていて、思わず見惚れてしまうほどだった。そして、目の覚めるような真っ赤な髪。太陽の光を反射してキラキラ輝くそれに目眩がした。目元にはタトゥー、にやりと笑う唇から犬歯が覗いて。う、わ、やばい。間違いない、この人、宅配のお兄さんじゃない。もしかしなくても、たぶん、そっち筋の、お方、ですよね? やばい!!
「す、すみませんまちがえました!!」
早口でそう言って、ドアノブを思い切り引いたけれど。がつん、という衝撃のあと、扉は微妙に開いたまま動かなくなってしまった。え、なんで? おそるおそる視線を下げると、飛び込んできたのは黒い革靴。高級そうなそれが、扉とドア枠の間にねじ込まれている。ひい! 短い悲鳴が喉から漏れた。目の前、ぬっと現れた大きな手のひらがドアの端を掴んだと思ったら、ぐいと強引にまた扉が開けられる。ぎゃあ! 再び対峙した男の、わたしを見下ろす目が、すっと細められた。
「間違えてねえぞ、と」
「あの、わたし、あの、」
「なんだよ、オレのこと、忘れちまったのか?」
その声色が、すこし、ほんのすこしだけ、悲しそうに聞こえたので。思わず口を開けたまま、目の前の男を凝視してしまった。突然わたしが押し黙ったからか、男はすこしたじろいだように瞬きをした。その澄んだ瞳が、わたしを正面から見つめる。透き通った瞳、光を閉じ込めたアクアマリン。その瞳に、雷に打たれたような衝撃が、身体中を駆け巡った。うそ、だって、そんな、まさか、ありえない、でも。間違いなくその瞳は、一度も忘れたことのない、色だった。
「思い出したかよ」
「レノ……? レノ、なの?」
「おう。会いにきたぜ、名前」
にっと笑ったレノが、とん、と自身の親指で鎖骨を示す。そこには黒く焦げたような刺青、ローマ数字の「VII」。自分の世界へ戻るまでの、カウントダウン。見間違えるわけがない。本当に、レノなのか。またこの世界に飛んで来て、でも、どうやって? というか、なんだか、ものすごく、成長していないだろうか? 脳内でぽこぽこと疑問が生まれて、話をするどころではなかった。口を開けたままレノを見上げると、同じことを考えていたらしいレノが唇を開いた。
「しっかし、おまえ、ちっせえな……こんなに小さかったか?」
「レノが、大きくなりすぎたんでしょ、たった一年で、どうして、」
「一年? あー、やっぱ、科学部門が言ってたことは間違いじゃなかったんだな、と」
科学部門? わたしの呟きに、レノは丁寧に答えてくれた。大人になった今は世界最大の企業である神羅カンパニーで働いていること。そこの技術者は指折りで、コネでこの世界を跨ぐ現象について調べてもらったこと。どうやら世界ごとに時間の流れるスピードが異なるらしいこと。それでも構わないから、と半ば無理やりこちらの世界へと再び飛んで来たということ。あまりの情報量に頭がパンクするかと思った。レノの世界って、やっぱりこっちの世界よりもいろいろと不思議に溢れているみたいだ。自慢気に話していたレノが一度口を閉じ、じっとわたしを見下ろした。その視線に、どくりと心臓が跳ねる。
「つーわけで、名前」
「え、」
「おまえに、会いにきた。世界を越えて、おまえに」
真剣な表情に、フラッシュバックしたのは最後の夜のことだった。月明かりに照らされたレノが、少しずつ、少しずつ、消えていった夜。あの時、レノはわたしを見つめて言ったのだ。「大人になったら、あんたのこと、絶対に、絶対に、迎えに来るから」嬉しかった。涙が溢れてしまうほど、嬉しかったけれど。まさか、本当に、再び会えるとは思ってもみなかった。レノの気持ちを、疑っていたわけではない。でも、大人だから、現実に“絶対”はありえないと、知ってしまっていたから。だから、忘れてしまっていた。違う、忘れようとしていた。レノとはもう会えるはずがないと、諦めてしまっていた。そういう運命なのだと、受け入れてしまっていたのに。レノはずっとずっと、信じていたのだ。再びわたしと会えると。それこそ、諦めずに、何年も、何年も、一欠片の可能性を信じて、生きてきたんだろう。わたしのために。わたしなんかの、ために。ぎゅう、と心臓が鷲掴みされたように軋んだ。いつだってレノは、真っ直ぐわたしを見つめて、正面から気持ちをぶつけてきてくれた。でも、わたしは、それに、一度も応えなかった。応えられなかったのだ。レノに嫌われるのが怖くて。だから逃げた。大人という壁を作って、彼を拒絶したのだ。彼自身のことなんて、ちっとも、これっぽっちも、考えていなかった。ぎゅう、と両手を握る。爪が手のひらに食い込んで、じんわりと痛んだ。「名前、」とわたしの名前を呼ぶレノの声は、低い男の人の声で、全く知らないはずなのに、ひどく懐かしいものだった。優しく、慈しむように、わたしの名前を呼んでくれるのが、嬉しくて、申し訳なくて、耐えられない。
「オレ、」
「レノ、違うよ」
だから、遮ってしまった。彼の視線が耐えられなくて、俯いて靴の先を見つめる。ずっとずっと、レノを騙していたことを伝えなくては。レノの前では都合の良い大人の振りをして、向けられる愛情に気づいていないかのように振る舞って。そのくせ、心地いいこの場所を失いたくなくて、拒絶されたくなくて。拒絶はされたくないのに、自分からは拒絶したなんて、本当にわたしは自分勝手で、最低だ。
「わたし、わたし、レノが思ってるほどいい人じゃないよ。臆病者で、逃げてばっかりで、世間体ばっかり気にして、自分が一番大事で、それで、」
「知ってる」
「え、」
「あんたが自分自身のこと、そうやって考えてんのくらい、知ってたに決まってんだろ」
顔を上げると、呆れたようなレノがわたしを見下ろしていた。知ってたって、どうして、いつから。知ってたなら、なんで、最後に、好きだ、なんて、あんなこと。
「そんなことねえよ、って、言えなかった。あの時は、オレはまだガキだったから」
「でも、」
「名前が優しいこと、オレは知ってる。あんたが、相手のことを、ちゃんと受け止めようとする人間だって、知ってる。あんたがそういう人間だったから、オレは救われた」
救われたっつーか、惚れた? 悪戯っぽくレノが小首を傾げたので、かあ、と顔に熱が集まった。目の前に立っているのはレノなのに、大人になったレノはレノじゃないみたいだ。救われた、なんて、言ってもらえるような価値が、わたしにあるのだろうか。いつだって、レノはわたしを救ってくれた。わたしはレノを救ったような気になっていただけで、本当はいつもいつも、レノがわたしを救っていてくれたのだ。
「だから、今度はオレの番」
「な、なにが、」
「あんたがもう寂しがらなくていいように、このレノさんがそばにいてやるぞ、と」
にっこりと笑うレノ。その笑い方が、子どものレノとそっくりで、あたりまえなんだろうけど、懐かしさに胸がきゅっと締め付けられた。そうして、気付く。待って、この笑い方、確か、裏がある時の笑い方、だったような。じっとレノを見つめると、レノは微笑んだまま「ん?」と囁いた。可愛らしいそれが、やっぱり綺麗すぎて、わたしの中の疑念がむくむくと膨らんでいく。あ、あやしい。子どもの笑顔ならまだしも、大人になって、この笑顔は、怪しすぎる。
「ほ、本音は?」
「あ?」
「今の、嘘じゃないけど、でも、本音じゃないでしょ? なに企んでるの?」
わたしの言葉に、レノは大きく目を見開いた。彼の、湖の底のような瞳が、扉の向こうから差し込む太陽の光を取り込んだみたいに、きらきらと輝く。その透き通った、アクアマリンのような瞳が、あまりにも、綺麗で。そうして、その瞳が、にい、と細められる。悪戯を見破られた子どものように、心底楽しそうに笑みを深めたレノが、その釣り上げた唇をゆっくりと開いた。そこから覗く犬歯に、なぜかぞくりと背筋が粟立って。
「あんた、本当、そういうとこだぞ、と」
「え、あ、え?」
「言わせるからには、もう戻れねえからな」
「ま、え、レノ?」
「あんたを掻っ攫いに来たに、決まってんだろ」
心も身体も。レノの腕が伸びてきて、そのまま彼に抱き竦められてしまった。香水だろうか、レモンの香りと、それから、それにまじって微かに、レノ自身の匂い。痛いくらいの抱擁に驚いて、身動きが取れない。わたしをすっぽり包み込んだレノが、すり、とその顔を首筋に擦り寄せてきた。肌に当たる髪がくすぐったくて、ぶつかる吐息が熱くて、頭がパンクしそうになる。抱きしめられてる。わたし、レノに、男の人に、抱きしめられている。走り出した心臓に、レノの名前を呼ぼうとしたけれど、「名前」と、そう呟いたレノの声が震えていることに、気がついてしまった。わたしを抱き締める腕は強いのに、どうしてだろうか、少しでも抵抗する素振りを見せれば、優しいこの拘束はすぐさま解かれてしまう気がした。
「なあ、あの日の続き、してもいいか、と」
耳元で囁いたレノが、わたしの瞳を覗き込む。あと少しでキスしてしまうくらいの距離に、心臓がきゅうと甘く締め付けられるように痛んだ。あ、あの日って、続きって、一体。こんな展開、全然予想してなくて、どうしたらいいか分からなくなってしまう。混乱した頭では、なにも考えがまとまらない。落ち着いて考える時間が欲しくて、ぐいとレノの胸板を押した。
「まって、レノ、わたし、」
「もう十分待った。16年だぞ? 気が狂うかと思った」
「16年?! え、うそ、レノいまいくつ、」
「オレはあんたより背も高くなったし、年齢も超えちまったからな。残念ながらもう、ガキじゃねえ」
思い出したのはレノとの会話だった。少年だったレノが、わたしを試すように押し倒したときの。そういうことは、わたしより背が高くなってからにして、と。確かに言ったけれど、それをレノが覚えているとは思わなかった。だって、わたしにとっては去年のことでも、レノにとってはずっとずっと前のことのはずで。ぐ、と抵抗するように再度胸板を押すと、レノの瞳が不満気に細められる。「なんだよ、」という声は不機嫌そうだけれど、腕の力は緩まった。もし、もしそうだとしたら、レノがあの時のことを覚えているとしたら。わたしの言ったことも、わたしの考えも、全部ぜんぶ覚えてて、わかってて、その上でここに立っているのだとしたら。レノが、わたしに向ける感情は、本物なのかもしれない。本当だと、信じていいのかも、しれない。
「本気の、」
「あ?」
「本気の恋は、したの?」
その瞳が、驚いたように見開かれ、それから、幸せそうに、愛おしいものを見るように、優しく細められた。ああ、その表情はよく知っている。レノがわたしにずっと向けてくれていたものだから。あの夏の日、最後の最後まで、そうやってレノはわたしを見つめていてくれた。
「あんたと過ごしたあのときから、ずっと、してる」
ずっとずっと。囁いたレノに、今度こそ。今度こそ、応えなければ。一年前、押し込めていた感情を、レノに伝えなければ。あの時と今とでは、すこし形が違うけれど。いまのレノが抱えてるものと、もしかしたら違うかもしれないけれど、それでも、この気持ちは、紛れもない、わたし自身の気持ちだから。レノの綺麗な瞳を正面から見つめて、小さく息を吸った。
「レノ、あのね、わたしも、」
「あー、やっぱいい、後で聞く」
「え?」
「もう我慢できねえ」
好きだ、名前。切なげに細められた瞳が近づいて、唇は奪われてしまった。触れたレノのそれは熱くて、柔らかくて、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。強引なくせに、何度も触れる唇は優しくて、背中に腕を回して静かに瞼を下ろした。掻っ攫いに来た、とレノは言ったけど。わたしの心はあの夏の日からずっと、レノに捕らわれたままだった。窓の外で蝉が鳴いている。触れた唇が離れて、はあ、という吐息に混じって聞こえる愛の告白。小さく「好き」を返したら、ふっと笑ったレノが「知ってる」と囁いた。再び降ってくる唇に応えるようにぎゅっとレノを抱き締めた。きっと、彼と共に生きる時間は、かけがえのないものになるだろう。時空も、世界すら超えて、わたしたちは今、確かに、ここに存在していた。忘れられない日々が、始まる。
200919
[ 9/9 ]
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