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「……完全に迷った」

 途方に暮れて漏れた言葉は、夜の街に吸い込まれていった。見上げても、いつも存在を主張している神羅カンパニー本社は、聳え立つビルの合間に隠れて見えなくなってしまっている。どうしよう。ビルの壁を駆け上って屋上まで出れば本社には戻れるだろうけど、人目があるここでそれをやるのは憚られた。どうやら飲み屋街らしいこのあたりは、仕事帰りだろう人々が忙しなく行き交っていた。人の波から外れるように、小さなバーの外壁に寄りかかる。赤い木枠の隙間から、店内のゆったりしたジャズが漏れて来た。
 八番街の警備もだいぶ慣れた先週から、少しずつ行動範囲を広げていた。通りを一本一本確認しながら、どんな店があるのか、敵を追い詰めるにはどこがいいか、追手を巻くのに最適な道かどうか、実際に歩いて頭に叩き込んでいく。しかし、今日はどうやら範囲を広げすぎたらしい。なんとなくの方角はわかるが、あまり自信がない。それに、すこし休憩したいなと思っていたのも事実だった。向かいの店の店員と目が合う。店の厨房とカウンターが繋がっており、中に入らなくてもカウンターから注文してテイクアウトできるようだった。喉乾いた。別にアルコールじゃなければいっか。あたしに目をつけたオニーサンが、にっこりと手招きする。誘われるまま近づいた。

「嬢ちゃん仕事帰りか? 一杯どうだ?」
「……アルコールはパス。レモンスカッシュひとつ」
「はいよ。砂糖は?」
「いらない」

 店員が手慣れた様子でドリンクを作っている間も、それとはなしに周囲を観察する。斜向かいのレストランは人気店らしく、オープンテラスにまで人が溢れている。陽気な笑い声も風に乗って聞こえて来て、なんだか自分がひどく場違いな気がした。出されたドリンクを受け取って、再び小さなバーの外壁に寄りかかる。新鮮なレモンを使っているのだろう。口にしたドリンクはさっぱりとみずみずしく美味しかった。

「……はぁ、」

 思わず漏れたため息は、全身の凝りのせいだった。ここ数日、資料室に缶詰になって書類整理に明け暮れていたから。あれ、絶対レノのせいだ。主任は新人教育の一環だって言ってたけど、絶対嘘。あんなに埃が積もるほど放ったらかしにされていた場所の整理が、新人教育の一環な訳がない。どうせレノの罰のついでにあたしにも手伝わせただけだ。ずず、とドリンクを吸い上げると、甘酸っぱい香りが口内に広がる。ふと、資料室で話したことを思い出した。

「人を殺したことは?」

 その言葉が、氷みたいに、すうっと心臓を冷やした感覚を、今でも思い出す。そのあとの「ま、この仕事も長ぇしな」という一言が、まるで重石のようにわたしの胸の中に沈んでいる。初めてレノに会った日、あのトレーニングルームでも、同じことを思った。飄々とした態度とは裏腹に、もしかしたら彼は、さまざまなものを胸の内に抱え込んで、それを悟られないように生きているのかもしれない。あいつの態度が、あたしは本当に気に食わないのだけど、でも、それが、本当のあいつじゃないとしたら。そうだとしたら、あたしは――。
 カラン、と響くカウベルの音に、意識は現実に引き戻される。あ、やばい、仕事中だった。そろそろ帰り道を探そうかとドリンクを飲み干したのと、バーから出て来た一組のカップルが視界に入ったのは同時だった。鼓膜を震わせるピアノジャズ、視界で揺れる赤毛に息を飲む。それは、あまりにも見慣れすぎた姿だった。あたしに気づいた男が、そのアクアマリンのような瞳を思い切り見開く。目の前の光景が信じられなくて、あたしも同じように男を凝視した。嘘でしょ? 最悪なんですけど。ここ数日あたしが缶詰になっている元凶であるレノが、口を半開きにしてあたしを見つめていた。

「うわ、最悪」
「は? おま、なんで、」
「あ、レノぉ、バッグ忘れたぁ〜!」

 甘ったるい声にレノから視線を引き剥がす。美しいブラウンの髪を揺らしながら、女がレノの腕を引いた。ぱっちりとした瞳、口元のルージュが鮮烈な印象を与える女は、その豊満な胸をレノの腕に押し当てる。ミニスカートから伸びる脚は惜し気もなく晒されていて、足元のピンヒールがいかにも女性らしい。すこしキツい印象を受けるが、綺麗な人だった。レノが困惑したように眉間に皺を寄せながら、あたしと女を見比べる。相当酔っているのだろう、レノの視線に気づかないまま、女はぐいぐいとレノの腕を引く。レノがよろめいた。

「ねえ、バッグぅ〜」
「はいはい、待っててやるから取ってこいよ、と」
「絶対だからね? 逃げたら承知しないんだからァ〜!」

 あたしに全く気づかない彼女は、ふらりと扉の向こうに消えていく。店員になにか言っているのが聞こえて来たけれど、あたしの意識は完全に目の前の男に持っていかれた。気まずそうに頬を掻くレノから、ふわりとアルコールの匂いが漂ってくる。そういえば今日は夕方からオフだと言っていた。なるほど、彼女とデートな訳か。それはそれは、いいご身分ですね。だらしなく開けられた胸元がこれほど憎いと思ったことはない。鎖骨の赤い痣は、間違いなくキスマークだった。

「彼女とデートですか? 羨ましいですね」
「彼女じゃねーよ。ていうかなんだよその敬語。気持ち悪ィ」
「え、彼女じゃないの?!」

 素っ頓狂な大声にレノが耳を押さえるけれど、それどころじゃなかった。え、彼女じゃないのに、あんなところにキスマークつけるの? 意味わかんないんだけど。いや、そういえばさっき逃げたら承知しないとかなんとか言ってたけど。え、まさかナンパ? うわ、なにそれ、ありえない。嫌悪感が顔にありありと出ていたのか、レノの表情がだんだんと険しくなる。いや、それ、こっちの反応なんだけど!

「……お前には関係ねぇだろ」
「無理。大人の爛れた関係、ほんっと無理」
「お子様には早かったかな、と」
「うるさい!」
「レノ〜! おまたせっ!」

 語尾にハートマークがついてるんじゃないかっていうくらいに上機嫌な女が、レノの首に腕を回して抱きついた。あ、と思った時にはもう、その唇はレノの唇とくっついていて。おい、と慌てたようにレノが彼女を引き剥がしたけれど、その口には真っ赤なルージュがこれでもかというくらいべったりついていた。うわ、キスした。しかも彼女じゃない女と。信じられない。胸に広がる不快感に視線が鋭くなったけれど、それは女がこちらを振り返ったせいで呆気なく折れてしまった。女の綺麗に縁取られた両眼が、あたしを捕らえる。ふわり、甘く深い香水の匂いが周囲に漂った。

「この子、だぁれ? レノの知り合い?」
「あー、こいつは、仕事の、」
「いえ、人違いです」
「あ、?!」

 レノの言葉をピシャリと跳ね除けて、くるりと背を向ける。そのまま歩き出すと、背後から「おい!」とレノの呼び止める声がする。いえ、人違いですから。あたしじゃないあたしじゃない。心の中で呪文のように唱えながら、ツカツカと歩みを進める。背後から聞こえてきた「ねえ〜ホテルどこにするぅ?」なんて甘ったるい声も、全然人違いだ。人を押し除けるようにして道を歩いて、歩いて、もういいだろうと思ったところで振り返る。人混みの向こう。見慣れた赤毛が、ひょこひょこと去っていく。その腕が、くびれた腰に回されていることに気付いてしまって、もやもやとしたものが胸の内に広がっていく。仕事仲間の、プライベートな面を見せつけられたからだろうか。燻るなにかを抱えたまま、がむしゃらに歩みを進めた。ていうか、彼女じゃないのに、キス、とか、肌を重ねるとか、そんなことする人、本当にいるんだ。あたしだったら絶対に嫌だ。恋人じゃないのに、気持ちがないのに、キスしたり、身体の関係を持つなんて、あたしだったら絶対に嫌だ。ちゃんと、気持ちが通じ合って、お互い歩み寄る期間があって、それから、それから――。

「は、はは。なにそれ、笑えるんだけど」

 気づけば全く見知らぬ路地裏に辿り着いていた。街灯ひとつないそこは、人気が全くない。足元を鼠が走り去る。それを見下ろす。乾いた笑いが漏れる。あたしだったら? そんなこと、あるわけがないのにな。あたしなんかに、恋人ができるはずがない。万が一、それこそ、本当に、奇跡みたいに、誰かと想いが通いあったとして、その先が、上手くいくはずがなかった。だって、あたし、神羅のモルモットだし。恋人なんて、そんなの、できるはずがない。そんなの、最初からわかってたはずなのに、どうしてか苦しくて、思わず胸元をぎゅっと握りしめた。左足の太腿、刻み付けられた証が、じくじくと痛む気がする。忘れてはいけない。忘れられるはずがない。あたしには初めから、自由なんてもの、ないんだから。

「……さて。ところで……ここ、一体どこ……?」

 顔を上げて、呆然と周囲を見渡す。見覚えがないどころか、方向感覚すらもうめちゃめちゃになっていた。ポケットの端末の存在を思い出すまでの一時間、あたしはひたすら路地裏を徘徊する羽目になる。





201203



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