10
目の前に積み上がった山を、少しずつ崩していく。この書類はあっちの棚、この冊子はこっちの棚。この企画書はさっきのとまとめてファイリングしてから別室の書庫の方へ。珍しく真面目に淡々と作業しているにもかかわらず、仕事は一向に減らなかった。先ほど昼休憩を取ったばかりだからか、じわりと睡魔の気配も感じる。正直もう投げ出したかった。朝からずっとこの資料室に閉じこもって、ずっと放置されていた資料の整理、整理、整理。頭がパンクしそうだった。くそ、耐えきれねえ。椅子に座ったままぐっと背伸びをすると、バキバキと背骨が鳴った。あ゛〜、と意味のない音が唇から漏れる。
「マジで、もう限界だぞ、と」
「それ、あたしのセリフなんだけど。アンタは自業自得でしょ」
鋭い視線とともに、ナイフみたいな言葉がぐさぐさとオレに刺さる。こちらを睨みつけたカレンは、ふんと鼻を鳴らしてからすぐに手元の資料へと目線を落とした。全くもって正論だったので、ぐうの音も出ない。開きかけた口を真一文字に結んで、また手元の資料を睨めつけるように見つめる。朝一で主任に言い渡されたのが、この資料室の整理だった。こんなクソみたいな仕事、普段のオレなら絶対にしないのに。端的に言えば、昨日の任務の始末書と引き換えに、この業務を請け負ったのだった。敵組織殲滅という任務だったが、ほんの少しだけやり過ぎた。敵のアジトもろとも、神羅の軍用車を五台ほど吹き飛ばしてしまったのである。今回ばかりは小言で済むはずもなく、処罰も兼ねて言い渡されたのがこの仕事だった。厳密には罰というほどの重いものではないが、オレにお灸を据えるという意味では理にかなっている。これからは神羅側の被害を考慮しようと思う程度にはすっげぇ面倒くせぇ。とくに、同伴者が面倒だった。だから、なんでこいつがいるんだよ。
「あたしだってこんな面倒なことしたくないけど、仕方ないでしょ。主任の命令だし」
「おまえ、オレの先輩なんだろ。後輩の尻は拭ってくれよ。オレの分も、」
「こういうときだけそういうこと言わないでくれる? アンタの罰にならないじゃん」
正論パンチの威力は衰えることを知らない。ヴェルド主任はカレンにも資料室の整理を命じたのだ。表向きは新人教育という名だったが、オレにはわかる。カレンは見張りだ。オレの。本人は全く気づいてねーだろうけど。真面目に資料をふりわけているカレンの、その横顔を盗み見る。彼女は主任と懇意にしているようだった。本人はもしかしたら隠しているのかもしれないが、他のタークスの面々は薄々気が付いているだろう。男と女の関係ではなさそうなので、問題になることはないだろうが、例えばオレが何らかの理由でこの仕事をサボった瞬間、それがダイレクトに主任まで伝わると思った方がいい。それはまずい。大変よろしくない。結果、仕方なく黙々と朝から作業に取り掛かっていた。が、それももう限界だ。
「なー、おまえ面白い話ねぇの?」
「は? なに急に」
「たとえばさ、恋人とかいねーの。いや興味は全くねーんだけど」
「なんでアンタに教えなきゃいけないわけ」
「暇なんだよ。それとも、口動かすと手も止まっちまうタイプか?」
「っ、はあ? そんなわけないでしょ」
カチンときたのか、カレンの声が鋭く尖る。いや、ちょろすぎだろおまえ……まあいいけどよ。右頬にビシビシと視線を感じるが、無視して手元の資料をとんとんと揃える。「で? いるのかよ」こいつの恋愛遍歴なんぞにに興味はないが、話の入りにはもってこいの話題だろう。膨らむ気もあんましねえけどな。一瞬止まった手を潔く動かして、カレンは澄ましたまま答えた。「いるわけないでしょ」ほら、やっぱりな。
「そういうアンタはどうなのよ」
「あ? なにおまえ、オレに気があんのかよ」
「アンタがっ! 先に聞いたんでしょ?!」
「今はいねーよ。でも残念だな、おまえ好みのタイプじゃねーんだわ」
「ほんっとアンタってうっざい!」
ぱぁん、と持っていた資料をカレンが机に叩きつける。おいおい、それ一応重要機密だぞ。いいのかよ。ぷりぷりしながら、カレンは目の前の山の天辺にそれを重ねた。振り分け済みの山は昼前よりもだいぶ高くなったけれど、後ろに控えた未処理の山はどうしてか一向になくならない。こりゃ今日中は絶対無理だな。わかってたことだけど。あとどんだけかかんだよ。同じことを考えていたのだろうカレンが、チィっと大きく舌打ちした。
「おまえさ、そんなすぐカリカリしてて潜入捜査とかできるのかよ」
「あのね、あたしだって軍事学校でそれなりの成績取ってるから。交渉術だってちゃんと、」
「へーへー、オベンキョしたことがすぐ実践できたら苦労しねえよ」
オレは軍事学校の出ではないから、あの閉鎖空間でなにが行われているのかはよく知らない。だが、“いざというとき”に重要になってくるのは、どれだけ勉強してきたかではないのだ。それは、経験であったり、はたまた運であったりするのだが、オレが何よりも信用しているのは“覚悟”だった。戦場では、覚悟のないものから死んでいく。死ぬ覚悟じゃない。死なない覚悟だ。生にしがみつく覚悟がない奴は、どれだけ頭がよかろうと、どれだけ身体面で優れていようと、すぐに物言わぬ骸になってしまう。こいつはどうだろうか。探るように視線を向けると、馬鹿にされたと思ったのだろうか、カレンは眉間に皺を寄せたまま口を開いた。
「あのね、アンタは知らないかもしれないけど、軍事学校では座学だけじゃなくて実践的な取り組みも、」
「じゃあ、人を殺したことは?」
はっ、と息を呑んだカレンが、オレを見つめる。見開かれたその瞳を、正面から受け止めた。深い深いエメラルド。似たような瞳を、どこかで見たことがある気がするが、一体どこだったか。ぱちり、とひとつ瞬きをしたカレンは、オレからふい、と視線を逸らした。その瞳が、揺れている気がしたのは、ただの見間違いだったのか。
「……あるけど、それがなに」
「あ、そ」
意外な返答だったが、こいつに悟られないように気のない返事を返した。顔を伏せてしまったせいで、カレンの表情は窺えない。そうか、あるのか。オレも手元に視線を落として、持っていた資料を振り分け済みの山の上へと放り投げる。ばさり、乾いた音がして、僅かに埃が舞った。ふと手を見ると、積もり積もった埃のせいで手のひらが薄黒く汚れている。きったねえな。ぱんぱんと手を叩こうとした、その直前だった。
「アンタはどうなの」
「あ?」
「人。殺したことあるの」
ちらり、とカレンに視線を走らせたけど、彼女は俯いたまま新しい書類を手にしてファイリングしている最中だった。なんの気ない質問のその裏で、この新人はなにを考えているのだろうか。座っていた椅子の背もたれに寄りかかると、ぎしりという椅子の悲鳴が不自然な大きさで部屋に響いた。人を殺したことがあるか、か。自分の手のひらを見下ろす。薄汚れた手のひらだった。いったい何人の血に触れてきたのか、もうオレ自身もわからない。臭いまで染み付いているような気がして、スンと鼻から息を吸った。埃っぽいカビ臭さがツンが鼻腔を突く。馬鹿馬鹿しい。パンパン、と手を叩いて、新しい資料を手にする。殺したこと? あるに決まってるだろ。それも、両の手では数えられないくらい。そう答えればよかったのに、どうしてかこの新人にそれを伝えるのは躊躇ってしまった。オレらしくもない。結局、妙に濁したような返答になってしまった。ぐっと手を伸ばして次の資料を手にする。嫌に重い冊子だった。
「ま、この仕事も長ぇしな」
「ふーん。……ねえ、なんでタークスに入ったの?」
「んー、ま、いろいろだ。おまえは?」
「……それしか、なかったから」
「あ? なんて?」
ぼそり、と突然声のトーンを落とされたのと、足元に書類の束を落としてしまったのが重なって、なんと言ったのか全く聞き取れなかった。ぎしりと椅子を軋ませながらそれを拾って、ついでに立ち上がって伸びをする。首を回すと、生きた人間から出る音とは思えないくらいの不穏な音がした。やっぱり休憩すっか。こんなカビ臭ぇところ、もう勘弁だな。
「おい、なんて言ったんだよ、と」
「なんでもない。アンタに関係ないでしょ」
「おまえが先に聞いてきたんだろ」
「痛っ! なにすんの!」
「うるせー。ほら新人、休憩すっぞ」
そこらへんにあった紙の束を丸めて、ぱしりとカレンの頭を叩く。ふわりと銀髪が舞って、むっとした表情のカレンがオレを見上げた。深いエメラルドの瞳。やはり、どこかで見たことがあるような。しかし思い出せない。気のせいか。未処理の山に紙の束を放り投げ、出口へと向かう。慌てた様子でカレンが立ち上がった。
「ちょっと、まだ書類整理が終わって、」
「どうせ今日中には終わらねぇよ。適度に休憩しねーと効率も悪い。エレベーター前のベンチで缶コーヒーでも飲もうぜ」
「……あたし、ホットの無糖ね」
「誰も奢るなんて言ってねぇだろ」
「アンタ、あたしの先輩なんでしょ。手伝ってくれてる後輩に奢るくらいしたら」
「こういうときだけんなこと言うんじゃねーよ」
ひょこひょこと後ろで揺れる銀髪を叩こうと手を上げてから、その手のひらが汚れていたことを思い出す。ちらりとみたカレンの指先も真っ黒だ。こりゃ、休憩の前に手洗いだな。そのあと、気が向いたら、この後輩に缶コーヒーくらいは奢ってやろう。巻き込んだ形にはなるわけだし、あと、一応先輩だしな、オレ。プシュウと扉が開いて、廊下の新鮮な空気に思わず深呼吸した。はあ、特大のため息を吐き出して、一歩足を踏み出す。とりあえず、当分は大人しくしていよう。これ以上デスクワークが増えるなんて、本当、まっぴらごめんだぞ、と。
201127