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- ナノ -

花弁を抱いて眠る


 その日がいつもと違ったのは、男が教会内へと入ってきたからだった。
 夕暮れの足音が近付く時間帯。天井の穴から差し込む日光は少しずつ角度を変え、ペンキの剥げた内壁を照らし出していた。どこからか入ってきた風が、裂けたタペストリーを微かに揺らす。くすんだステンドグラスと、崩れた長椅子。そして、足元に広がる花畑。教会に居るのはもう、エアリス一人きりだった。先ほどまで遊んでいた子どもたちは、みな家の手伝いに帰ってしまった。丁度、夕飯の支度が始まる頃だろう。伍番街スラムには、食欲をそそる匂い充満がしているに違いない。小さな雑草をぷちぷちと抜きながら、エアリスは「うーん、」と一人唸った。そろそろ帰って、夕飯の手伝いをしなければならないだろう。あまり遅くなると、エルミナはいい顔をしないはずだ。そう思いながらも、あと少し、あと少し、を繰り返して、ずるずると帰宅時間を延ばしていたのだった。理由はない。しいて言えば、“勘”だった。しかし何故か、彼女の勘はよく当たる。そうして、ひとり花と向き合うエアリスの耳に、その音は飛び込んできのだった。教会の扉が軋みながら押し開けられる。次いで響いた革靴のコツリと言う音に、バッと顔を上げて、振り返った。黒い上質なスーツに、揺れる赤毛。ざっくりとあいた胸元に光る、シルバーのネックレス。久方ぶりに見た、男――レノの姿だった。レノの黒い革靴が教会の床を踏み締めるたび、朽ちた床板の小さく軋む音。ひとつ、ひとつ、まるで何かのカウントダウンのように迫ってくる音が、ピタリと止んだ。男のアクアマリンの瞳が、彼女の視線とばちりと合わさった時。エアリスは、男に気づかれないように小さく息を飲んだ。顔立ちが整っていると、以前から思っては居たが。悲壮感を漂わせたその表情は、いっそ、儚い美しさすら孕んでいた。そうして、同時に、触れたらふつりと切れてしまいそうなほどの、危うさを持っていた。最後に彼を見たのは、いつだったか。そうだ、カレンが、神羅カンパニーから――レノの元から、消えてすぐのことだった。あれほど慌てた様子のレノを、エアリスは見たことがなかった。常に距離感は保っていたものの、それなりに付き合いは長く、お互い「知り合い」の枠組みなど疾うに超えていた彼の、酷く取り乱した姿が、今もエアリスの脳内に深く刻み込まれている。カレンを知らないか、とエアリスに詰め寄ったあの時のレノと、今、エアリスの目の前に佇んでいるレノは、まるで別人のようだった。眼窩は落ち窪み、頬の肉はげっそりと痩けていた。かろうじて、その宝石のような瞳に、光は宿っているものの、あまりにも様変わりしたその様子に、言葉が出ない。そんなエアリスの動揺を、敏感に感じ取ったのか。レノは眉を下げ、困ったように笑った。

「……よォ。久しぶりだな、と」

 掠れた声。必死に取り繕ったそれに、エアリスはどう応えるのが正解なのかわからなくなる。以前、この男とは、どのような会話をしていたのだろうか? 思い出せない。そう考える一方で、すとんと腑に落ちたこともあった。そうか、最近気配はするのに、自分の前に現れない理由はこれだったわけだ。自分の本心をひた隠しにすることに長けた男が、ほんのひとかけらの虚勢すら取り繕うことができなかったから。だから男はエアリスの前に現れなかった。任務を放り出すことなど出来ない男の、精一杯の選択が、影から見守ることだなんて。エアリスは唇をきゅっと引き結ぶ。男が不憫に思えると同時に、揺れ動くその感情が痛いほど理解できた。エアリスも同じだったから。彼女の大切な人も――目の前から、消え去ってしまった。

「見かけないから、監視、なくなったのかとおもっちゃった」

 つん、とすました顔でそう言うと、レノは、ふは、と力なく笑った。それを見てから、エアリスは男に向けていた視線を手元へと戻す。土いじりをしていたせいで、白い肌は汚れ、爪の間には泥が詰まっていた。エアリスにとっては、見慣れた自分の指先だった。それを、綺麗だ、と言った男を思い出す。太陽のように明るく、空のように澄んだ人だった。あの笑顔を思い出すたび、エアリスの胸はぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛み出す。目の前に立つ赤毛の男も同じなのだろうか。深いエメラルドの瞳や、揺れるアッシュブロンドの癖毛を思い出すたび、エアリスと同じように泣きたいほど胸が苦しくなるのだろうか。訊ねることなど、できるはずもなかった。唇を閉じたまま、エアリスが花畑に向き合うと、レノは頭を掻いてから講堂内を見渡す。そうして、朽ちかけた長椅子へと腰をかけた。レノの体重を受けた椅子はぎしりと軋み、板がたわみながら、なんとか男の身体を支えた。煙草を吸うでも、指遊びをするでもなく、レノは呆然とエアリスの後ろ姿を見守っている。否、“見ている”というよりは“映している”という言葉の方が相応しかった。レノはどこも見ていなかった。なにも見ていないし、なにも感じていない。そうして、数分後、思考すらしていない自分に気付いて、ひとり苦笑を漏らしたのだった。

「はは、」

 吐息のような笑いは、教会の空気に溶けるようにして消えていった。聞こえなかったふりをしているのか、それとも本当に気付いてないのか、エアリスはレノの方を振り返ることはない。そんな彼女のいつもと同じ様子に、安心する自分が居ることに、レノ自身は気が付いていた。最近は彼女と出会わないように、教会から少し離れたところで行う“お仕事”だったが。今日、この場所に足を踏み入れたのは、ただの気まぐれだった。今までのレノにとって、この任務は刺激のないつまらないものであり、同時に少しの息抜きの時間でもあった。“護衛”対象であるエアリスとの会話は毒にも薬にもなりはしなかったが、彼女の“普通”とはズレた感覚が、レノには興味深くもあったし、エアリスの、どこか見透かすようなその瞳が、レノは嫌いではなかった。古代種が持つ不思議な力に、知的好奇心が擽られていたのも確かだった。今までは。彼女が――カレンが、居なくなるまでは。ずきり、とレノの心臓に痛みが走る。目の前にカレンの顔がチラついて、それを振り払うように頭を振った。乾きそうになった口内を潤そうと、舌で歯列をざらりと舐める。唾を飲み込んで、小さく息を吐いた。いつもそうだった。カレンが居なくなってから、レノはカレンのことを考えるだけでぐらぐらと足元が覚束なくなる。これでもまだマシになった方だった。一時期、人前に出ることすらできなくなった時のことを思い出して、苦虫を噛み潰したような気分になる。タークスのエースが、聞いて呆れる。エアリスが見ていないのをいいことに、レノはひとり眉間に皺を寄せて小さく舌打ちを零した。レノという男は、タークスの仕事に関して、誰よりも高いプライドを持っていた。それは誇りというよりは矜持であったし、最終的には意地でもあった。自分の都合で仕事に穴を開けることが、レノには耐えられなかった。耐えられなかった、はずだった。その矜持を捻じ曲げて、レノはカレンの行方を追った。自分が出来うる限りの方法を駆使して、四方八方を駆けずり回った。そうして、手を尽くして、結果、彼女の行方を掴むことはできなかった。まるで流れる水のように、彼女はレノの手から零れ落ち、忽然と消えてしまった。レノの手元に残されたのは、血溜まりに沈んだ小振りの電磁ロッドと、彼の胸元で光るちっぽけなリングだけだった。それから、こうやってエアリスに会いに来るまで、それなりの月日が流れることになる。記憶すら朧げな日々を反芻しそうになって、レノはまた小さく被りを振った。命を摘むような蕭然たる仕事を選り好んだのも、過密なスケジュールを組んだのも、全ては誰もいないあの家に帰りたく無いからだった。結果、ぶっ倒れたレノは、医務室に閉じ込められ、食事と睡眠を管理されるという、屈辱的な姿を周囲に晒してしまったわけだった。相棒に介護される様など、思い出したくもない。黙っているから意識は内面へと向かうのだ。思考を遮るように「なあ、」とレノはエアリスに声を掛け、そうして直ぐさま後悔した。全くもって、レノらしくない行動である。何も考えずに会話を始めることなど、“普段”のレノならば、有り得なかった。

「なあに?」

 律儀にもエアリスが振り返って問うたので、用意していた「何でもねえ」は口から飛び出すことはなかった。一瞬言葉に詰まったレノに、エアリスが首を傾げる。その翡翠の瞳にじっと見つめられ、どくりとレノの心臓が嫌な音を立てた。見透かされる。ぐらりと揺れる思考を読み取られたくなくて、レノは咄嗟に視線を落とした。その先、エアリスの足元に咲き誇る花を視界に入れるや否や、それを人差し指でピッと指した。

「その花、いくらなんだ、と」
「え?」
「だから、花。プレートで売ってんだろ。いくらなんだよ」

 取り繕ったせいでぶっきらぼうな言い方になったが、エアリスは気にすることなく花を見下ろす。足元で揺れるそれを眺めてから、細い指でその中の一輪を摘み取った。生き生きと咲く花がエアリスに手折られるのを、レノは目を細めて見届ける。どうしてか、彼女に手折られるのを、花たちが待ち望んでいるように見えて、レノは数度瞬きをした。感傷的になっているのだろうか。しかし、それほど彼女の姿は絵になることも確かだった。指先で摘んだ花を、エアリスが眼前に掲げる。それから、レノを見てにんまりと笑った。

「値段は相手、見て決めるの」
「ほー。オレは?」
「レノは……200ギル、かな」
「ふは、ぼったくりかよ」
「でも、これは、あげる」
「あ?」

 立ち上がったエアリスが、レノへと歩み寄る。突然のことに、何のリアクションも取ることができなかった。レノの目の前で立ち止まったエアリスが、手に持った一輪の花をすっとレノに差し出した。真っ白な花、だった。艶やかな花弁が夕日に照らされて、淡く輝いている。呆然と見つめたまま、一向に受け取らないレノに、再度エアリスは花を差し出した。小さく首を傾げながら、念を押すように小声で告げる。「特別、ね?」その言葉にハッとしたレノは、胸の前で大きく手を振った。

「いや、オレは花は、」
「花言葉、」

 レノの言葉を遮ったエアリスが、じっとそのアクアマリンを見つめた。力強い瞳。不思議な色合いのそれに、レノは思わず息を飲んだ。――彼女によく似た、瞳だった。

「花言葉、『再会』だから」
「っ、」
「きっと、必ず、また、会えるから」

 そう言って、エアリスは半ば無理やりレノの手に花を押し付けた。そのままくるりと踵を返し、教会の外へと向かっていく。おい、というレノの呼びかけにも、返事はない。ピンクのワンピースを靡かせながら、エアリスは扉の向こうへと去っていった。残されたレノが、はあ、と溜息をつく。ふわり、柔らかく香ったのは手元に残された花だった。ミッドガルでは珍しいそれを摘んで、指先でくるくると回す。そういえば、あいつも花が好きだと言っていたっけな。くしゃりと笑った顔を思い出して、またツキンとレノの胸が痛んだ。純白の花弁に鼻をくっつけて、思い切り息を吸う。胸に広がる甘く優しい香りに、何故が目頭が熱くなった。

「なあ、カレン……、」

 ――どこにいるんだよ。
 柔らかく襲い来る睡魔に、レノは瞼を閉じた。帰ったら、何処かに仕舞った花瓶を探し出して、この花を生けよう。最悪、そこら辺のグラスでも構わない。寝室のサイドテーブルなら、きっと日当たりもいいはずだ。そうして、朝まで少し眠ろう。寝つきは良くないだろうけれど、きっと悪夢は見ないはずだ。「カレン、」レノの呟きを、どこからともなく吹いてきた風が攫っていく。花たちが、静かに揺れていた。





200825



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