08
迫りくる拳に、細く短く息を吐く。半歩引いた右足に体重を流して仰け反ると、目の前を黒い革手袋が通過していった。間一髪、見切ったはずなのに、風圧だろうか、掠めた左頬に走る痛み。回避した勢いのまま、身体を沈めた。床に片手をついて、思い切り、右脚で脇腹を蹴り上げる。右腕で防がれることは予想済みだ。勢いを殺さずに二撃目、上半身の捻りを利用して、左足をガラ空きの側頭部に叩き込んだ。完全に入ったと、思ったのに。あたしの左足はがしりと掴まれた。男の左手だ、そう思った時にはもう、投げ飛ばされたあとだった。流れる視界、次いで、背中に衝撃。壁に打ち付けられたのか。受け身を取ることすらままならなかったので、あまりの痛みに「うぐっ、」と情けない呻き声が漏れた。そのまま石畳にずるずると座り込む。というよりは、尻から落ちたと表現した方が正しかったかもしれない。打ち付けた場所がじんじんと熱を持っていた。荒く呼吸をしながら、痛みに閉じそうになる瞼を必死にこじ開ける。コツ、コツ。黒い革靴が、硬い床を踏みしめる音。目の前で止まったそれは、染みひとつなくて。ゆっくりと顔を上げると、サングラス越しの瞳と視線がぶつかった。鋭い視線。ひゅっと喉が鳴る。だめだ、やられ、る。
「はい、勝負有りだぞ、と」
パン、と乾いた拍手が一回。楽しそうにそう述べたレノが、端末を操作する音。街並みはホログラムとなって崩れ、無機質な光景が戻ってくる。もう見慣れてしまった、バトルシュミレーターの中だった。はあ、と大きく息を吐くと、背中がズキズキと痛む。骨に異常はないと思うけど。さすが、パワーが桁違いだ。立ち上がろうと身をかがめると、ぬっと視界に大きな革手袋が映り込んだ。座り込んだまま、その主を見上げる。眉間に皺を寄せたまま、ルード先輩がぼそりと呟いた。
「立てるか」
「……ありがとうございます」
大きな手。差し出されたそれを強く握って、なんとか立ち上がる。痛みに一瞬ふらついたが、奥歯にぐっと力を入れて堪えた。これ以上の醜態を晒すわけにはいかない。ただでさえ、あの赤毛は心底愉快そうなのだ。あいつをもう喜ばせたくはない。眉間に皺を寄せたまま、スーツについた埃を払う。腕も痛めたのか、動かすたびにズキズキと痛んで「う、」という声が漏れた。満身創痍だ。
「すまない、力加減を誤った」
「いえ、ルード先輩が悪いわけでは、」
「そ。弱っちぃおまえに問題があるんだよな?」
にまにましながら近づいてきた赤毛を睨みつける。今日の“訓練”という名の“新人イビリ”は、いつもと異なっていた。朝のミーティング後、レノに引き摺られるようにしてここにやってくるのが、毎日のルーティンなのだけれど。今日あたしの目の前にいるのはレノだけではなかった。黒いサングラスと、スキンヘッド。一目で堅気ではないとわかるこの男性は、あたしの同僚であるルード先輩だ。肉弾戦を得意とするルード先輩は、厳つい見た目の通り、パワーが桁違いだ。予想はしていたけれど、組手をしていてダメージが入った感触が全くなかった。いいのが入ったと思ったら、その上からパワーで叩かれる。レノの組手とは大違いだ。いや、レノとの訓練は、組手にならない、という表現が正しかった。こちらの攻撃をするりと避けて、おちょくるように攻撃してくるそれは、もう訓練と呼べるものでは到底なかった。あたしが、一方的に嬲られてるだけ。まあ、お陰で攻撃を避けるのは上手くなったけれど、打ち込む方は全然だ。どこからかそれを聞きつけたのか、はたまた興味本位なのか、今日はルード先輩があたしのお相手を買って出てくれたのだった。たった今ボコボコにされたわけなんだけど。
「しかし、カレン……お前、もう少し鍛えた方がいいな」
「うっ、」
オブラートに包まれていたが、実力不足をピシャリと指摘され言葉に詰まる。確かに、自分の身体に対して関心が薄いことは自覚していたけれど。それをこうも正面から突っ込まれてしまうと苦いものを感じる。タークスとしての未熟さを、その瞳に見抜かれたようで歯噛みした。
「お前は体幹が弱いんだ。しっかりと鍛えれば、細身でも叩ける。自分の力でゴリ押しするな。相手の力を利用しろ」
「はい」
「ほーら。オレがいつも言ってるだろ、と」
「は? アンタからアドバイス貰ったことないんだけど」
「ああ、相手の攻撃を読むのはまずまずだったな。レノとの特訓の成果か」
「う、」
「ていうかおまえ、そのロッドじゃでかいだろ。隙がありすぎるぞ、と」
ルード先輩の台詞に、思わず言葉に詰まると、にやにやと馬鹿にするような視線が飛んでくる。本当、腹立つな、もう! むすりと黙り込んだあたしに追い討ちをかけるように、レノがあたしの右手を指差した。神羅製の電磁ロッド。支給品のそれは、未だあたしの手に馴染まない。軍事学校で一通りの武器は使ったけれど。結局使いこなせたのはスナイパーライフルだけだった。使いこなせた、というか、一人で訓練できる武器がそれしかなかった、とも言う。軍事学校でのあたしの知り合いはシスネだけだ。他には、いない。だから、相手の必要な組手は、いつまで経っても苦手だった。
「……専用の武器、持ってないので、」
「んなの、技術部に頼んで新しいの作ってもらえよ」
「特注か……まあ、武器にこだわるのは悪いことではない」
今日中に言えば、明日には試作品ができているだろう。ルード先輩が低く呟いた。なるほど。タークスともなれば、依頼後すぐに技術部が動いてくれると言うわけか。右手に握ったロッドを見下ろす。別に、攻撃が防げるならなんでもよかった。支給されているもので、それなりにマテリア穴が多いものを選んだのだけれど。それも、注文したら増やしてもらえるのだろうか。タークス様様だ。
「だが、お前の場合は武器以前の問題だな」
ルード先輩の瞳が、サングラスの奥できらりと光る。ぎくりとこわばった身体は、自然と背筋が伸びてしまう。先ほど打ち付けた場所が痛んだけれど、姿勢を正してルード先輩の言葉を待った。見た目に反して、と言ってしまうと失礼極まりないのだが、ルード先輩の指導は、いつだって丁寧で、的確だった。口数は多くないけれど、言葉の一つ一つに重みがあって、それがあたしはけっこう好きだった。信用できる、気がして。
「お前は実戦経験が足りなすぎる。時間がある時はトレーニングルームに行け。毎日だ」
俺も手伝おう。そう言って、ルード先輩はサングラスをかちゃりと押し上げた。レノが、「おーおー優しいこって」と茶化すように言ったけれど、ルード先輩がじっとあたしを見つめたので、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、ルード先輩」
「……ずっと思っていたが、“先輩”は必要ない」
「え?」
「レノは呼び捨てだろう? 俺もそれで構わない」
「でも、」
「お前も、俺も、同じタークスの一員だからな」
「タークス、の?」
「有り体に言えば、……仲間、だな」
仲間。思わぬ言葉にルード先輩を凝視してしまう。そんなことを、言われるとは思っていなかった。仲間。あたしが。今までにない感情に、身体がふわふわと浮いているみたいだった。どういう表情をして良いのかわからなくて、自然と眉が下がってしまう。口をへの字に曲げたあたしを見下ろしたルード先輩……ルード、が、ふっと笑う。綻んだ口元を見つめ返すと、後ろから拗ねたような声が飛んできた。
「おい、オレは許可した覚えねーんだけど? 敬語もねェし」
「……敬語って尊敬する相手に使うものなんだけど」
「おっまえなァ……んなこと言ってっと、回復してやらねえぞ、と」
「っ、いらない!!」
レノが左手のバングルをあたしにかざすから。思わず鋭い声が出てしまった。二人の動きがびくりと止まる。まずい、今の反応は流石に、まずい。さっと血の気が引いたけれど、ここで硬直してしまったらもっと怪しまれるのは目に見えている。強張った身体を無理やり動かして、ポケットからポーションを取り出した。異様に渇いた喉を締めながら、レノに向かって唇を吊り上げる。うまく笑えているか、自信はなかった。
「先輩のお手を? 煩わせるわけないでしょ」
「あ?」
すぐに視線を逸らして、ぐびりと液体を飲み込んだ。もう慣れた味が喉を通過して、傷めた箇所がじんわりと熱くなる。全てを流し込んで、容器をポイと投げ捨てる。口元を手の甲で拭ってレノを見つめると、むすりと不機嫌そうな顔と目が合った。
「お相手お願いできます? レ、ノ、先、輩?」
「おーおー上等だ、ボコボコにしてやるぞ、と」
レノが端末を操作するその横で、それを見つめるルードが呆れたように首を振った。どうやら、誤魔化せたみたい、だった。二人に気付かれないように、はあ、と息を吐く。“仲間”か。あたしに、仲間。仲間には、秘密があっても良いのだろうか。言えないことがあっても、仲間で、良いのだろうか。レノが設定を終えたのか、ホログラムによって背景が構築されていく。偽りの世界。あたしと同じだ。あたしが、偽りだったとしても。それでも、彼らは、あたしのことを仲間だと呼んでくれるのだろうか。ぎゅ、と拳を握りしめる。あたしの居場所はここしかないから。今ここでできることを、やっていくしかない。ゆっくりと息を吐いて、ロッドを握り直した。今は、この赤毛の先輩に、一発入れてやることだけ考えよう。
200817