25
水底から水面に浮かび上がるように、意識はゆっくりと浮上した。薄暗い部屋、知らない天井。クラウド、と名前を呼んだティファが、心配そうに俺を覗き込む。その後ろでエアリスが、安堵の表情でバレットと顔を見合わせていた。ここは、一体。完全に覚醒しないまま、ゆっくりと身体を起こす。俺は、なにを、していたのだったか。記憶を辿ろうとして、唐突に思い出した。宝条実験室の、巨大なプラントポット。その中に浮かぶ、意識のないカレン。そう、あいつが、やっと、そうだ、カレンは、
「カレン、っ」
「しーっ、ほら、クラウド、隣」
エアリスが唇に当てた人差し指で、俺の隣を指差す。振り返ると、同じベッドにカレンが眠っていた。見慣れない黒い服を纏うカレン、その胸のあたりが規則正しく上下している。肺に詰まった息を、ゆっくり吐き出した。よかった。……生きて、いる。
「その服、お母さんのなの。サイズ、ぴったり」
「お母さん?」
「……うん。子どものころ、お母さんと、ここで暮らしてたの」
エアリスが室内を見渡す。無機質な作りの部屋だったが、どこか温かみのある、生活感溢れる室内だった。何よりも目を引くのは、エアリスの後ろの、壁。一面に、色とりどりの、花や、植物や、動物が、描かれている。極彩色のその景色は、ミッドガルに居る限り、見ることのできないものだ。この絵は、一体。キングサイズのベッドから足を下ろすと、目眩に襲われる。目頭を押さえると、ティファが心配そうにこちらを覗き込んだ。頭を振って立ち上がり、バスターソードを手に取る。壁の絵に近づくと、エアリスが悲しそうに目を伏せた。
「毎朝、お母さんだけが連れて行かれて……よくひとりで泣いてた」
「エアリス」
「そんなとき、ね、カレンと出会ったんだよ」
「……脱出の前に話してくれ。色々あるはずだ。……カレンの、ことも」
俺を見上げたエアリスが、辛そうに、でもしっかりと頷いた。それから、ちらりとカレンの顔を窺う。未だ眠りから覚めないカレンは、ベッドに横たわったまま、静かに呼吸を続けている。彼女の過去を、彼女のいないところで聞くのは、少し、罪悪感がある。そんな感情が出ていたのか、エアリスは俺の顔を見てからふ、と笑った。
「カレンには、後で、ちゃんと話そう?」
「……ああ」
頷いた俺を見つめた後、エアリスが俯く。語り出したのは、古代種について……いや、セトラについてだった。意外にも、バレットがエアリスの言葉に続く。約束の地――星が与えし定めの地。それをずっと、神羅は探しているという。そのために、セトラであるエアリスの力が必要なのだ。星と語る、彼女の力が。
「エアリスは、知っているの? 約束の地」
「なーんにも。……いつか、わかるのかもしれない。でも、今は、全然」
「もしわかってもそれは、古代種、いや、エアリスの約束の地だ。たとえ魔晄が吹き出す豪勢な場所でも、神羅には何の権利もねえ!」
吠えたバレットに、エアリスは、ありがとう、と微笑んだ。その翡翠の瞳が、俺を射抜く。真っ直ぐなその視線を、正面から受け止めた。
「セトラの研究、するため、お母さんだけ、連れて行かれて。泣いてたわたしに、声、かけてくれたの。それがカレン」
――ないてるの。
――あなたは、だあれ?
――……きみ、だれ。
――わたし、エアリス。
――ふぅん。
――あなた、だれ? どうして、ここにいるの?
――あたし、生まれた。ここ。
――ここで?
――ずっと、まえ。
――ひとりなの?
――みんな、しんだ。
――お母さんも?
――オカアサン?
――ひとりぼっち、なの?
――ん。
――じゃあ、わたしと友だちに、なろう?
――トモダチ?
――うん。友だち!
その日から、カレンはエアリスの部屋をたびたび訪れるようになったのだという。言葉がたどたどしく、文字が全く読めないカレンのために、エアリスは与えられた絵本を何度も読んであげたそうだ。幼い二人のそれは、ずっと続けられた。――エアリスの母、イファルナが、彼女を神羅から連れ出すまで。
「わたし、ずっと忘れてたの。……ううん、本当は、覚えてた。覚えてたけど、忘れたふり、してた。カレンが、本当に、一人ぼっちになっちゃったこと、わかりたく、なくて。だから、タークスとしてわたしのところに来たカレンに、なにも、言えなかったの」
ぎゅ、とエアリスが、胸元の手を強く握りしめた。白くなった指先が、彼女の苦悩を表しているようで。エアリスは、ひとりで、苦しんでいたのだ。ずっと。
「カレンも、わたしに、なにも言わなかった。話しかけても、こっち見て、くれなくて。仕事だからって、それだけで。だから、わたしも、見ないふり、しちゃったの。ごめんねって、たったひとこと、言えばよかったのに、ね」
「エアリスはなにも悪くねぇ! 悪いのは……神羅だ!」
「そうよ! ひどい……ひどすぎるよ」
俯いたティファの声が、震えている。想像以上の過去に、動揺が隠せなかった。幼いカレンは、「ここで生まれた」とエアリスに告げた。神羅カンパニーで生まれたということは、つまり。宝条の、人を見下したような態度を、冷徹なその瞳を思い出して、腸が煮える思いだった。許さない。人を、命を、弄ぶような真似、そんなこと、許すものか。
「そのあと、カレン、見かけなくなって。何年も経って、それで、あの教会で、倒れてるとこ、見つけたの。怪我は、そんなにひどくなかったんだけど、」
「記憶がなかった、のか」
「本当はね、何度も、言おうと思った。あなたのこと、知ってるって、何度も。でも、カレンが、タークスにいたときみたいに、また、冷たくされたら、どうしようって。せっかく、仲良くなったのに、そんなの、嫌だって、思ったら、なにも言えなく、なっちゃった」
ひどいよね、わたし、最低だよね。口元を震える指で押さえて、エアリスが俯く。ティファがその背に手を回し、落ち着かせるようにゆっくりと撫でた。ありがとう、ティファ。ぽつりと漏らしたエアリスが、指先で目元を拭う。
「だから、ね。どうしてカレンがタークスにいたのかも、あの教会で倒れる前になにがあったのかも……なにも、知らないの」
「…………そうだったんだ」
「カレン?!」
突然聞こえてきた相槌に、全員が振り返る。ベッドの上、ゆっくりと身体を起こしたカレンのエメラルドが、こちらを見つめていた。
***
どうしよう。まぶたを閉じたまま、眉間に皺を寄せる。ふわふわとしていた意識は、今やはっきりと戻ってきていた。先ほどまで痺れて全く動かなかった身体は、力を入れればぴくりと動く。もう、とっくに起きてはいるんだけれど。真剣な会話が交わされるこの空間で、起き上がるタイミングを完全に逃してしまっていた。どうやら周囲に敵はおらず、みんなが、この部屋に集結しているらしい。みんなが。クラウドたち、もしかしなくても、あたしを助けに、来てくれたのかな。離ればなれになってしまったときのことを思い出す。そうだ、コルネオの館で、睡眠ガスを嗅がされて。気付いたら閉じ込められてて、レノに会ったあと、連れ出された先が研究室で、無理やりプラントポットに押し込まれたんだった。宝条という白衣の男の、あの目を思い出して背筋が凍る。ただの、実験体を、観察するような、目。すぐにポットの中が液体で満たされて、それを飲み込んでしまって、そこから、意識が。ああ、そうだ、その直前に男が「ついに古代種を捕まえた」とかなんとか言ってたっけ。そうか、古代種って、エアリスのことだったのか。じゃあ、エアリスも捕まってたのかな。酷いこと、されてないといいけど。でも、声を聞く限りは、怪我とか、してないみたい。よかった。ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が飛び込んできた。でも、エアリスによれば、あたしはここを知っている、らしい。そっか。小さいころの、あたし、本当に、ここで、神羅で、生まれたんだ。
「ひどいよね、わたし、最低だよね」
エアリスの声に、ゆっくりとそちらに顔を向ける。俯いたエアリスに、ティファが寄り添うところだった。そうか、エアリスには、伝えてないんだった。あたし、気にしてないよって。エアリスが、選んだなら、それでいいんだよって。ゆっくり瞬きをする。いつだって、大切なことは、言葉にしないと、伝わらない。
「だから、ね。どうしてカレンがタークスにいたのかも、あの教会で倒れる前になにがあったのかも……なにも、知らないの」
「…………そうだったんだ」
「カレン?!」
室内にいる全員が、一斉に振り返る。その視線を受け止めながら、よいしょ、と身体を起こした。長時間液体に浸かっていたからか、ひどく全身が怠い。けれどまあ、動けないこともないし、痛みもない。驚いた表情のみんなを見回して、その視線に居心地が悪くなる。あー、そうだよね、完全に盗み聞きだったもんね、あたし。気まずくなって、思わず頬を掻いた。
「えーと、ごめん、実は結構前から意識はあったんだけど、身体、全然、動かなくて」
「……今は、大丈夫なのか」
「うん。この通り。あー、なんか、盗み聞きしたみたいで、ごめ、」
「カレンっ!!」
突然、あたしの名前を叫んだエアリスが、駆け寄ってきて。その勢いのまま抱きついてきたので、受け止めきれずにまたベッドにダイブしてしまった。エアリスの腕があたしの、首に、絡まって、あの、エアリスさん?! あの、首、首、締まってます、あの!! あたしの首が! 締まってます!!!
「え、エアリス、あの、くび、くびが、あ」
「ごめんね、カレン、ごめんね」
そう言ったエアリスの声が、あまりにも、辛そうで。わたしの肩口に顔を埋めたまま、エアリスは小さく震えていた。その背中を、そっと、撫でる。細くて、柔らかい、ただの女の子、だ。その華奢な背中に、なんて重いものを、彼女は背負っているのだろう。それが、少しでも、楽になりますように。子どもをあやすように、とんとん、と優しく叩いた。じんわりと濡れる肩には、気づかないふりをして。
「わたし、カレンの過去、知ってたの。知ってて、知らないふり、したの。カレンと、やっと友達になれるかもって、思ったら、言い出せなくて」
「そっか」
「カレン、ごめんね、ごめんね、」
「泣かないでエアリス。多分あたし、わかってたんだと思う」
「え……?」
ゆっくりと顔をあげたエアリスが、潤んだ瞳であたしを見つめてくる。きらりと光る翡翠が、すごく、綺麗で。ああ、きっと、たぶん、あたし、この瞳を、護りたかったんだ。ずっと、ずっと、前から。
「あたしはさ、やっぱり記憶、戻らないけど。でも、あたしがなに考えてたか、今ならわかるよ。エアリスと友達になったらさ、神羅なんてやめる! ってなること、きっとあたし、わかってたんだよ」
「カレン」
「だから、ね。気にしないで」
「でも、」
「あたしも、エアリスに、傷のこと、黙ってたし。だから、おあいこ」
微笑むと、エアリスが辛そうに目を伏せた。過去の実験で負ったであろう醜い痕。プラントポットに押し込まれる前に、ドレスはひん剥かれてしまったから。たぶん、助け出されたときに、見られてしまった。でも、もういいか。どうせクラウドには、手揉屋で見られてただろうし。
「ね、だから、もう、」
「でも、カレン、あのね、わたし、まだ、黙ってること、あるの」
「え?」
「わたしと、カレンと、それから、彼の――」
突然、天井から大量のボロ布たちが現れた。ティファたちが驚いて戦闘態勢を取る中、エアリスがゆっくりと立ち上がる。浮遊するそいつらをじっと見つめるエアリス。ボロ布たちは、あたしたちを、まるで観察するかのように、一定の距離を保ちながら漂っている。意図が全く理解できない行動に、バレットが声を荒げた。
「ったく、なんなんだよ、こいつらは! 神羅製のバケモンか?」
「『フィーラー』だ。……“運命の番人”という理解が、最適だ」
運命の、番人。こいつらが? 身体を起こして、飛び回るボロ布を見つめる。顔のない、不気味なローブ。運命の流れを変えようとする者の前に現れ、行動を修正するものたち。運命の流れ――この星が生まれて、そして消えてしまうまでの、流れ。今までの、あいつらの行動も、全て、運命の流れを元に戻そうとしていたのだろうか。一番街プレートや、七番街スラムで襲ってきたときも。もし、本当にそうだとしたら。あのとき、フィーラーたちは、あたしを――。思考をぶった切ったのは、バレットの大声だった。混乱したバレットに詰め寄られた赤いわんこは、呆れたように息を吐いてから、ちらりとエアリスを見上げる。
「私は、犬ではない。……エアリスが私に触れたとき、フィーラーの知識もそこにあった」
「……あのね、みんな、聞いて」
何かを決心したエアリスが、言葉を紡ぐ。それを、まるで咎めるかのように、フィーラーたちはエアリスの周りをぐるぐるとまわり出した。エアリス、と名前を呼んだけれど、彼女は前を見たまま、はっきりと、告げた。
「わたしたちの敵は、神羅カンパニーじゃない。きっかけは神羅だけど、本当の敵、他にいる。わたし、どうにかして、助けたい。みんなを……星を」
「エアリスはなにを知ってるの?」
「今は、わからない。フィーラーが触れるたび、わたしのカケラが、落ちていく。――黄色い花が道しるべだったんだ」
ぶわり。天井から、壁から、床から。至る所からフィーラーが現れ、エアリスを取り囲む。その、あまりの流れに、エアリスがよろめいて。倒れそうになったエアリスを、助け出したのは、ティファだった。エアリスの、手首を、しっかりと握って、引き寄せて、そして、大丈夫、と安心させるように、ティファは微笑んだ。
「一緒に考えよ」
「うん」
エアリスが、しっかりと頷くのを、ぼんやりと、見つめる。するすると、音もなく、フィーラーはどこかへと消えていってしまった。あたしを、あたしたちを、残して。静寂は、それほど長くは続かなかった。室内のモニターの電源が入り、砂嵐が映る。次に映し出されたのは、見知らぬ髭のおじさんと、久しく見ていなかったウェッジの姿だった。
「ウェッジ!」
「どうして?」
驚くバレットとティファ。彼らに何かあったのだろうか、という疑問は、一瞬で消え去った。そうだ、アバランチのアジトは、七番街スラムの、セブンスヘブン。レノを呼びにきたあの神羅兵が、漏らしていた。七番街プレートの崩落作戦。そうか、本当に、プレートは、落とされて、しまったのか。ぐ、と奥歯を噛み締める。あたし、知ってたのに。プレートが落とされるって、たくさんの人の命が、消えてしまうって、知ってたのに。何もできなかった。俯いて、ぐっと手のひらを握った直後、どおんという大きな音ともに部屋全体が揺れる。
「今のなに? 爆発?」
「本家アバランチの作戦ッス。混乱を起こしてプレジデントを狙うっていう」
「間に合わなかったな。今の爆破で、警戒態勢に移行した」
画面が切り替わり、表示されたのはマップだった。現在地であろう場所から、矢印が伸びていく。移動可能な場所を通って、屋上まで向かえという指示だった。どうやら、アバランチ本家のヘリが、あたしたちを脱出させてくれるらしい。また後で、と指を立てるウェッジを映して、映像は途切れた。
「ったく、あいつ、勝手に動きやがって」
「でも、助かった」
「帰ったら説教だな」
「行こう」
クラウドの言葉に、ティファとバレットが、出口へと向かう。続いて、エアリスとしゃべるわんこも。……仲間、なのかな。歩き出そうとしたクラウドは、しかし、振り向いてあたしのほうに向かってきた。その眉間には皺が刻まれていて。ああ、心配を、かけてしまったな。クラウドのことだ、きっと、文句を言いながらも、一直線に、ここを目指したに違いない。もしかしたら、あたしは、エアリスのついでだったのかもしれないけど。クラウド、エアリスのボディガードだしね。それでも、クラウドが、あたしを助けに来てくれたことが、今目の前に居てくれることが、あたしに、手を差し出してくれることが、どうしようもなく、うれしくて、うれしくて、そして、かなしい。
「カレン、立てるか、」
「クラウド、助けに来てくれたんだね、ありがとう。エアリスも捕まってたの、クラウドが助けたの? さすがだね、ボディガード。あ、ティファとバレットにもお礼、言わなきゃ。あと、あの赤いわんこは新しい仲間? すごいね、しゃべってたよね。あ、そうだ、あたしのバングル知らない? 服は別に、なくてもいいんだけど、マテリアがないと、あたし、みんなの役に、」
「カレン、」
遮るように名前を呼ばれて閉じた口は、ずっしりと重くて。クラウドが困惑しているのが雰囲気でわかってしまって、なんだか、泣きたくなった。どうしてだろう。蜜蜂の館で、一緒に踊ったのか、もうずっとずっと昔のようだった。
「カレン、お前、」
「なにも言わないで」
お願い、なにも言わないで。絞り出した声は、震えていただろうか。あたしに差し出された手のひらが、所在なさげに目の前で揺れていて。やさしい、手。きっと、たくさんのものを、救ってきた手。これから、たくさんのものを、救い出す、手。それを、掴まずに、ゆっくりと立ち上がる。あたしの名前を呼んだクラウドの脇をすり抜けて、部屋の中央で、大きく伸びをした。手足を振って、身体の状態を確かめる。うん、大丈夫そうだ。早くここを脱出しなければ。脱出して、そして――。どうするの。どこに行けばいいの。ここで生まれた、あたしに、居場所なんて、ないのに。ちがう、とにかく、みんなを、ここから脱出、させなきゃ。エアリスを、みんなを、ここから。
「行こう、クラウド」
振り返ると、苦しそうな瞳と目があった。魔晄の眼。その表情に苦笑が漏れる。どうしてアンタが泣きそうなの。本当、優しいね、クラウドは。そんな、優しい人の手を、あたしなんかが、握れるわけもなかった。
200604