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「ほら、シャキッとしなさいよ」
「だって、どうせ形式だけでしょ、お見合いなんて」
「だからって、手を抜いていいことにはならないでしょう?」

 ほら、背筋を伸ばして。母親の鋭い眼光に、唇を尖らせたまま背筋を伸ばす。母は満足そうににこりと笑ってから、わたしの前を歩いた。
 老舗の日本旅館の床板は磨き込まれており、踏みしめるたびに木の感触が伝わってくる。門を潜った瞬間から香っているのは、何かのお香だろうか。一見さんお断りの高級店であるここは、たしか日本庭園が有名だったような。慣れない場所だからか、慣れない服装だからか、なんだか落ち着かない。豪勢な帯は母が嫁いだ時のものだそうだ。ウン十万円もするそれを身につけて、わたしは今日、見合いをする。
 わたしの家系は代々特殊な術式を持った呪術師だった。父も、祖父も、曽祖父も、そのまた父親も、力のある呪術師で、その名を継いできた。ところが、父と母の間には娘のわたししか生まれなかった。この術式を途絶えさせてはいけないと父親は躍起になっていたが、反抗期真っ只中のわたしは父の持ってくる縁談を片っ端から蹴っていた。ていうか、高校生に縁談話を持ちかけてくる父親ってどうなの。それでも、最終的に折れたのはわたしの方だった。三十手前、いろいろなもののカウントダウンが迫ってきたからとか、この先恋人を作る気がしないとか、理由ならいくらでも転がっていた。相手が幼馴染の腐れ縁だと言うこともある。さまざまな要因が重なって、今日わたしはここに立つことになったのだ。
 相手の男は幼馴染で、わたしが高専に入学するまでは何をするにも一緒だった。彼自身も強力な術式を持った一族であり、かなりの呪力を持って生まれたのだ。わたしのように。ただ、彼の先祖は代々京都校を卒業しているらしく、彼も例に漏れずそちらに入学することになった。高校が別になっても、連絡はちょくちょく取っていた。恋愛感情があるわけではないが、すでに家族のような存在でもある。お互い、「まあ、あいつならいっか」と言うような塩梅で結婚することとなったのだ。

「お母様は、此方のお部屋でお待ちください」
「あら、どうかしたの?」
「お相手の方からそのように申しつかっておりますので」

 女中さんが音もなく障子を開けて、母に向かってぺこりと礼をした。どうやら、聞いていた段取りと違うらしい。おかしいわねえ、と首を傾げながらも、母はわたしの背をポンと叩いた。

「しっかりやってらっしゃいね。粗相のないように」
「小学生の頃一緒にお風呂入ってたくらいだよ? いまさら粗相も何も……」
「はいはい。がんばってね」

 母が背中を向けると同時、障子が閉ざされる。こちらでございます、と再び歩き出した女中さんについていくけれど、なんだか背中のあたりがぞくぞくと居心地悪い。なんだろう。緊張しているのだろうか。なんだか、雰囲気が、よくない、ような、

「こちらのお部屋でございます」
「あっ、ありがとうございます」
「では、私はこれで」
「え、」

 廊下の突き当たり、閉ざされた部屋の前で、女中さんは一礼した。そのまま障子を開けることなく、くるりと彼女は背を向けてしまう。あれ、これ、わたし勝手に開けていいの? 一瞬の逡巡のあと、あの、と振り向いた先、廊下には誰の姿もなかった。ぞくり、と背筋を這い上がる違和感。ゆっくりと障子に向き直る。これを、開けてはいけない、気がする。母の元に、戻った方がいいに違いない。それなのに。頭の中で警鐘が鳴り響いてるにも関わらず、わたしの指先はその取っ手を捉えてしまった。
 すっと開けた視界のその先、鼻をつく濃厚な香りとともに、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。柔らかいい草の香りと、設られた重厚なテーブル。一面の巨大な窓のその先に、青々とした日本庭園が広がっている。趣のある石燈籠と、立派な松。白い砂利道のその先は、池に架かる橋へと繋がっている。見たことがないくらい、美しい庭園だった。でも、わたしの視線は、ある一点に、釘付けになってしまった。
 知らない服装だった。真っ黒の着物に柄は一切ないが、生地がいいのがこの距離からでも見て取れた。そのうえから、梔子色の五条袈裟を身につけているその姿は、まるで僧侶のそれだった。庭から吹き込んできた風が、柔らかく彼の黒髪を揺らす。その髪の感触を、わたしは知っている。瞳の色も、温かみのある声も、おおぶりな耳朶も、服に隠れた素肌すら、すべて。知っている。知っていた。どうして、彼が、ここに。
 男が振り向いた。懐かしくて、愛おしくて、そして、もう見たくない顔だった。男――夏油傑は、にこりとわたしに笑いかけた。

「やあ。見ないうちに、また綺麗になったね」

 その言葉に硬直が解ける。咄嗟に戦闘態勢を取り、周囲を見渡すけれど、武器になりそうなものは見当たらない。どうしよう。心臓がどくどくと嫌な音を立てて走り出す。高専時代、同級生だった傑とは何度も手合わせをした。数えきれないくらいのその中で、わたしが勝ったことは一度も、ない。
 ビリビリと殺気を送るわたしにも、傑は顔色ひとつ変えなかった。背凭れからその身体を起こして、わたしを見つめてくる。爽やかな笑みはあの頃と全く変わっていなくて、だからこそ疑念が胸の内を渦巻いた。わたしの心情など手に取るようにわかっているくせに、傑は笑みを貼り付けたままわたしを手招いた。

「待ってたよ。ほら、掛けて掛けて、」
「っ、なに言って、」
「いいから、ほら――早く」

 にこにこと笑っていた傑の目が、スッと開かれる。その眼差しの冷たさに、背筋が震えた。低くなった声は、明らかに警告だった。ごくり、と唾を飲み込んで、傑の顔を強く睨みつける。しっかりと地を踏みしめて、傑の向かいの席まで歩く。わたしの行動に、傑は満足そうに唇を釣り上げた。
 時間を稼がなければ。一人で特急呪詛師とやりあうなんて馬鹿げてる。別室には母もいるし、幼馴染もその母親も高レベルの呪術師だ。わたしが居ないことに気づけば、きっと応援を呼んでくれるはず。それまで、彼をここに引き留めておかないと。

「久しぶり、元気だった?」
「なにが目的なの?」
「……私もお見合いなんて初めてだけど、普通こういうときは世間話から入るんじゃないのかい」
「知らないわよ、そんなの」

 傑は楽しそうだった。手元の湯呑みでお茶を飲んでから、わたしを見つめたまま一人朗らかに笑っている。爆発しそうになる感情を必死に抑えて、テーブルの下でぎゅっと手を握り締めた。目の前の湯呑みに、手を付けるわけにはいかない。

「あとは、ご趣味は? とかだろうけど。君の趣味はもう知ってるしね」
「さあ、どうでしょうね」
「音楽の趣味も、本の趣味も、男の趣味も、全部見てきたからね」
「……知ったような口聞かないで」
「事実だろ? 忘れたとは言わせないよ」

 事実だった。この男とわたしは恋人同士だった。高専で出会って、一緒に過ごして、恋をした、どこにでもいるただの恋人同士、だったのだ。ただ、わたしは呪術師になって、男は呪詛師になった。それだけの関係だった。
 恋人だった傑が姿を消す直前、酷く悩んでいたことを知っている。話を聞いて、一緒に悩んでいたのだから。わたしだって呪術師だから、傑が大切だったから、傑の悩みは痛いくらいにわかっていた。だから、正しい方向に、共に歩んでいきたいと、そう思っていたのに。わたしの望みは打ち砕かれた。
 一度だけ、傑が会いに来たことがある。街中で声を掛けられて、そうして、一緒に来ないかと、そう誘われた。優しく落ち着いたその声を聞いて、わたしは理解してしまった。傑は、越えてしまったのだ。呪術師として越えてはならない一線を。どれだけわたしが傑のことを好きでも、傑がわたしを愛していても、その線を越えてしまってはもう、わたしたちは恋人同士ではいられなかった。わたしは、傑よりも、呪術師である自分を選んだのだった。

「わたしたち、あのとき別れたはずでしょう」
「そうだね、だからこうして、もう一度交際を申し込もうとしているのだけれど」
「断るわ」

 ピシャリと言い放ったわたしに、傑はきょとんと目を見開いた。それから、あはは、と大口を開けて笑った。その様子が、本当に理解できなくて、こめかみを汗が伝う。恐ろしかった。人間は、理解できないものに対して恐怖を抱いてきた。だから、名前をつけることで、それに形を与えて、理解したつもりになってきたのだ。わたしも、理解した気でいたのだ。夏油傑という男を。
 慣れない着物で身体が締め付けられているせいだろうか、息が苦しかった。ひとしきり笑った傑は、ごめんごめんと大きな手のひらで口元を覆う。

「ごめんね、君があまりに可愛くて」
「は、ァ? なに言って、」
「可愛くて、弱くて、愚かで、愛おしいと思っただけさ」
「っ、な、」
「ねえ、君は、」

 一体なにを待っているんだい?
 びくん、と身体が跳ねた。傑がわたしを見つめて、愛おしそうに目を細める。深く、深く、昏い瞳だった。知らない。こんな彼は、知らない。こんな瞳で見つめられたことなど、一度だってなかった。危険だ、逃げ出さなきゃと思うのに、わたしの身体は指先一本ぴくりとも動かせない。言葉を失うわたしに、傑は歌うように囁いた。

「おかしいと思わなかったのかい。君がこの部屋に来るまで、女中以外と誰ともすれ違わなかっただろう? 母親と引き離され、約束の時間は疾うに過ぎているのに、幼馴染である見合い相手は現れない。それに、ほら……君の周り。気づいてなかった?」

 ぬるり、と肩を何かが這う感触に、か細い悲鳴が漏れた。呪霊が。数えきれないくらいの呪霊がわたしを取り囲んで、今にも食おうとその手を伸ばしてきていた。嘘、なんで、いつ、どうして。ぐるぐる回る疑問が聞こえているかのように、傑はがたりと立ち上がる。そのまま、テーブル越しに、わたしの方へと手を伸ばした。

「いい香りだったろう? 呪力探知を麻痺させる香だよ。上物なだけあって、効果は抜群みたいだね。私も気に入ったんだ。君も、気がついただろ?」

 そうだ、この旅館に足を踏み入れた時からずっと、わたしのまわりにはこの香りが漂っていた。意識した途端、押し寄せてくる呪力の波に飲まれそうになる。傑の使役する呪霊だった。窓の外は暗い。帳か。そして、ああ、気づいてしまった。この部屋にこびりついた残穢。忘れるはずもない、これは、幼馴染の――。
 思い切りその場に嘔吐しそうになったのに、できなかった。身体の自由が一切きかない。たった一人、大量の呪霊に囲まれたわたしは、酷く無防備だった。呼吸が苦しい。帯のせいじゃない。目の前の男のせいだ。この場を掌握しているのは、目の前で微笑む夏油傑、ただ一人だった。

「な、にが、目的、なの……」
「まだわからないの?」
「え……?」
「私が欲しいのはね――君だよ」

 その長い指が、迷うことなくわたしの頬に触れる。するりと指先でなぞられて、頬を大きな手のひらが包み込んだ。硬直したわたしよりも、傑の手は温かくて、柔らかかった。すり、すり、と撫でる優しい手つきは、まるで初めての夜の愛撫のようだった。ぞくん、と身体が勝手に反応する。数え切れないくらいこの手に抱かれたのに、それが恐怖の対象になるなんて、あの頃のわたしはこれっぽっちも知らなかった。

「君が好きだ、愛してる。忘れようとも思った、でも無理だった。私は君がいないとてんでだめなんだ。ずっとそばにいて欲しい。いっとう大事にする。誰にも触れさせない。愛してる。君だけだ」

 うっとりとわたしに語りかける傑の目は真剣で、その瞳の奥は切なげに揺れていた。それは、紛れもない本心だった。だからこそ――だからこそ、思う。こんなの、間違ってる。傑のことを、受け入れられるはずがない。たとえ命を奪われたとしても、女として――人間として、そして呪術師として、譲れないものがわたしには、

「そうだ、返事はきちんと考えたほうがいいよ」
「え、」
「私は、優しいからね。どれだけ嫉妬に狂おうと、愛しい君の大切な願いなら、叶えてやってもいいと思っているんだ」

 ひゅ、と喉の奥が鳴った。傑が、わたしの唇をゆるりと親指で撫でる。わたしの頬を引き寄せて、その耳元に顔を近づけた。吐息が。傑の吐息が耳をくすぐって、その唇が開く気配に鳥肌が立った。心臓を、直接撫でるような、優しい優しい声だった。

「幼馴染も、母親の命も、全ては君の掌の中だよ」

 そんな。漏れた呟きは、音にならなかった。満足気に微笑んだ傑が、わたしの顔を覗き込む。深く沈んだ、とろけるような瞳に、選択の余地などないことを知った。ああ、一体どこから間違っていたのだろうか。わかるのは、もうなにもかもが遅いということだけだった。じわり、と浮かんだ涙に、全てを理解した傑が幸せそうに微笑む。甘い声でわたしの名前を呼んで、傑は再び囁いた。

「また、私のものになってくれるかい? もう二度と、手放さないから」
「わ、たし、」
「愛してる。ずっとずっと、死ぬまで、私の傍に」

 唇に触れる熱。瞼を下ろすと、ほろりと雫がひとつ、頬を伝って落ちていった。


210216