七海の手が好きだ。骨張っていて、指がすらりと長いのに、節がごつごつしているその手が。武器を扱うせいで厚くなった手のひらは所々タコのようなものができていて、よくへたり込むわたしを立ち上がらせるときにだけ触れられるそれが好きだった。それに反して手の甲の皮膚は薄く、血管が浮き出ているところなんてぞくぞくするくらいセクシーだ。それから、形の整えられた短めの爪も好きだった。毎日ヤスリで手入れをしているらしいそれは硬そうだけれど、しっかり触れたことがないのでどんな感触なのかはわからない。触れてみたい。自分の指先で、七海の手首から先、指の一本一本まで、丁寧に触れてみたかった。こんなこと言ったらドン引かれるのは自明の理だったので、今まで一度もそんな気など微塵も出したことがなかったけれど。今日は、時と、場所と、状態が、悪かった。
「ねえ、七海の手、触らせてよ」
「……は?」
かちゃかちゃと食器がぶつかり合う音が微かに聞こえてきた。どうやら隣の席を店員が片付けているらしい。個室の居酒屋。ちょっと値段の張るこの店は、日本酒が美味しくて七海のお気に入りの店だった。つまり、わたしのお気に入りの店でもあった。久々に時間が取れたので、たまたま車が一緒になった七海とお酒でも飲みに行こうという話になったのが一時間ほど前のこと。卓上の鍋を空にしたのはほとんど七海で、わたしはお酒ばかり頼んでいた。詰まるところ。
「酔ってますね」
「そりゃあ飲んでますからちょっとは酔ってるよ」
「いや、結構酔っているようですが」
「そんなには酔ってないよ〜」
嘘だ。わたしの頭は今、羽が生えてるんじゃないかってくらいふわふわしてる。なにもしてないのに、ふふふ、と自然と笑いがこみ上げてくるくらいには酔っ払っている。七海が面倒臭そうに眉間に皺を寄せた。あ、人のこと面倒な酔っ払いだって思ってるな! けしからん!
「ね、ね、ちょっとだけ!」
「……仕方ありませんね」
「やった!」
思いの外すんなり許可を出されたので、思考力が幼稚園児並みに低下したわたしはきゃっきゃと喜んだ。空いたツマミの皿や卓上コンロを脇に寄せて、丁寧に布巾でテーブルを拭いた七海が、どうぞ、とその右手を出してくる。失礼しまーす、と小さく告げて、その手を両手でぎゅっと握った。
「わ、やっぱり手のひら、硬いね」
するり、と七海の手のひらに指を這わせる。幾つものタコと、それからうっすらとピンクがかった傷跡。呪術師の証でもある傷跡も、七海のだと思うと胸がきゅっと切なくなった。これが、たくさんの呪霊を祓って、たくさんの人の命を救ってきた、七海の手のひら。わたしの手より、ひとまわりもふたまわりも大きくて、ゴツゴツとしたそれは、見た目に反して熱を持っていた。わたしよりも高い体温に、きゅんと心臓が跳ねる。あれ、わたし、どうしちゃったんだろ。
「そうですか?」
「うん、わたしと全然違う」
「……私の術式は武器を用いるので」
「そっか。わたしのは探知に特化してるから、戦闘ではあんまり役に立たないもんね」
「それから、貴女は女性ですから」
え。言葉にならない音が、唇からするりと漏れた。七海の手のひらが、ぎゅっと、わたしの手を握っている。ただの握手じゃない。指先の絡まるそれは、正真正銘の恋人繋ぎだった。どくんと走り出した血液が、心臓から末端まで勢いよく流れていくのを感じる。え、ま、まって、な、なに、が、起きて、
「あ、の、なな、み、」
「そして、私は男です」
「あっ、」
「忘れていたと、言わせるつもりはないですよ」
思わず手を引きそうになったわたしを制すように、七海がきゅっと指先に力を入れた。それだけで、どうしてかわたしの全身が弛緩してしまう。状況の飲み込めないわたしを見つめて、七海がふっと笑った。見たことのないくらい、色っぽくて、くらくらしてしまうような笑みだった。わたしを見つめたまま、七海の人差し指が、わたしの手の甲を甘く引っ掻く。ぞわぞわとしたものが身体を駆け巡って、でもそれは全然嫌じゃなくて、でも逃げてしまいたくなって、息を吸ったらふるりと唇が震えた。七海の爪が、柔くわたしの肌に立てられる。あ、やっぱり、つめ、硬い。頭の隅でそんなことを考えた瞬間だった。絡めたままのわたしの手をくい、と引き寄せた七海が、それを口元、に、
「な、なな、み……っ?!」
「さて、これ以上ここにいる理由もありませんし、帰宅しましょう」
瞬きすらできないくらいあっという間の出来事に、わたしは夢を見ているのかと思った。定員を呼び出した七海が、カードを渡して会計をする。今の一瞬は夢だと思いたいのに、繋がれたままの指先がそれを許してくれない。アルバイトだろう定員が、チラリとそれを見遣ってから、暖簾の向こうへと消えていった。や、やっぱり、わたしだけに見えてる、夢じゃない……っ!
「な、七海、あの、」
「ところで、」
ぎゅ、と手を握られただけで、わたしの唇は全く役目を果たさなくなった。じっとわたしを見つめる七海の、その瞳の奥に揺らぐ熱に気付いてしまって。かあっと頬が熱くなる。先ほど唇が触れた部分も、発熱しているかのようにじんじんと疼いて。知ってしまった。七海の手が大きいこと、七海の爪は硬いこと、そして、七海の唇は熱く湿っていること。
「貴女は、私にどこを触らせてくれるんです?」
ふ、と笑った七海に、返す言葉など一つも見つからなかった。ことり、と胸の奥で何かが落ちる音がする。絡まった指先は解かれる気配すらなくて。ああ、きっと今日、わたしは家には帰れない。
201214