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「そういえば悟、この間誕生日だったよね。なにが欲しい?」
「オマエ」

 間髪入れずに答えてしまったので、やってしまったと後悔してももう遅かった。12月の風は冷たくて、薄いダウンでは少し心許ない。町外れの廃墟の屋上、沈みゆく夕陽を見送っていたコイツは、びっくりしたようにこちらを振り返った。その柔らかな髪が、冬の空にふわりと舞う。今日ほど、目隠しをしていてよかったと思う日はなかった。瞳を覗き込まれなくて済むから。きっとコイツは、俺の動揺をなんとなく察してしまっているのだろうけど。
 奇妙な沈黙。山に囲まれた窪地の町から、懐かしいメロディが低く流れてきた。ドボルザークの家路。切なくも柔らかいメロディは、どこか郷愁を誘われる。人間はいつだって何処かに帰りたがっていた。それはちっぽけな自分の家なのかもしれないし、母親の胎内なのかもしれないし、この世界が生まれる前に存在していた別の世界なのかもしれなかった。コイツにも、帰る場所があった。俺が、奪ってしまったけれど。その事実が、何年経った今でも、俺の心臓を軋ませている。
 コイツは傑の恋人だった。だった、と過去形にするのが正しいのかは、俺にはわからない。どうやら傑が離反してからは一度も逢っていないらしいというのは硝子の見解で、俺にはコイツが今まで通りの生活を送っていたことに奇妙な違和感を抱くばかりだった。今ならわかる。あの時のコイツは、そうやって以前と変わらない生活を続けることで、辛うじて自分という形を保っていたのだ。夏油傑という人間がいなくなってぽっかりと空いた穴を、ただひたすら他のもので埋めようとする俺とも違い、自然と塞がるのを待つ硝子とも違い、その空白すら抱きしめて、あの地獄のような日々を送ってきたに違いない。愛の深さを測ることができたのならば、きっとコイツほど深くまで掘り進めた人間もそうそう居ないだろう。硝子なんか絶対軽いだろうしな。俺は――どうだろうか。

「悟、今のって、」
「あー、やっぱいいよ、ナシナシ」

 びゅう、と風が吹いて、湿ったい空気をさらっていった。軽いな。風も、俺も。いや、本当は軽くない。軽くないと、思う。わからない。測ったことがないし、比べたこともない。例えば特級呪霊が一度に100体現れて、そいつらの半分がコイツを、半分が原子力発電所を襲ったとしたら、多分俺はコイツを見捨てるだろう。命の重さを天秤に乗せて、傾いた方を救うことしか俺にはできない。そしてたぶん、コイツは俺がその他大勢を助けることを笑って赦してくれるだろう。悟が決めたなら、いいよ。わたしだって、きっとそうするよ、なんて、あの柔らかな声で告げるに違いない。コイツといると、沈みがちな俺の気持ちはいつだってふわりと浮き上がった。それは、側から見ればなんの変化もないような些細なことだったけれど、俺は彼女のそういうところに何度も救われてきた。だから惚れたのか、惚れたから救われたのか、因果関係は判然としない。

「ナシ、って、なにそれ」
「そのままの意味。忘れてよ、困っちゃうでしょ」
「困るって、誰が?」
「……オマエ、とか」

 俺とか。小さな呟きは風に吹かれて巻き上がった。絶対に届いていないと思ったのに、眉間に皺を寄せていたコイツの目が驚きに見開かれたから、失敗したな、とまた後悔する。そんなことばっかりだ。コイツの前ではいつもそうやって、やること成すこと全てが裏目に出てしまう。学生の頃、バカやって笑い合ってたあの頃は、そんなことなかったのにな。いつからだろうか。傑が居なくなってからか。それとも、もっと前、コイツが特別になった時からか。

「悟が勝手に困ってるだけじゃん」
「オマエだって、困るだろ、……いろいろと」
「……困らない、よ」

 真っ直ぐ俺を見つめるコイツの瞳に、どくりと心臓が脈打った。その鼓動はだんだんと早くなって、全身を駆け回る血液が熱くて、頬がかすかに火照る。くそ、なんだよ、それ。思わせぶりなコイツの態度にも、勝手に期待して体温を上げる俺自身の身体にも、言い様のない苛立ちが湧き上がる。吐き出した声は思った以上に低かった。

「オマエ、意味わかってんの」

 困るだろ。こんな感情、今更ぶつけられたところで、誰も幸せになどなれやしない。オマエさあ、傑の女だろ。俺のこと、本当は憎みたいんだろ。俺みたいな奴に、あんなこと言われて、普通だったら、吐き気がするくらい、嫌に決まってるだろ。いっそ憎んで欲しかった。嫌悪してくれれば、俺だってこんなぬるま湯みたいな関係に溺れることなどなかったのに。しかし、コイツは一度たりとも俺を責めたことなどない。たったの一度も。だからこそ苦しくて、辛くて、切なかった。好かれないのなら、嫌われたかった。まるで子どもの独占欲だ。ぐちゃぐちゃな俺の心とは対照的に、目の前のコイツの瞳は静かに澄んでいた。なんだよ、それ。ぐしゃりと胸を掻き乱すような視線に、苛立ちは加速する。

「わかってる。困らない。わかってないのは、悟の方だよ」
「は? なに言ってんの? 俺がなにをわかってないって?」
「わたしのこと、全然、わかってない」
「オマエのこと? ハッ、ああそうだよ、俺はオマエのことなんて、傑と違って、これっぽっちも、」
「わたし、いつまで傑だけを好きでいなきゃいけないの?」

 がつん。鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。俺を真っ直ぐ睨みつけたコイツの瞳が、ぐらりと揺れている。なにを言われているのか、一瞬では理解できなかった。いつまで傑だけを好きでいなきゃいけないの? なんだよ、それ、やっぱ好きなんだろ。いや、違う、いつまでって、傑だけって、一体、どういう。

「オ、マエ、だって、好きだったろ、傑の、こと、」
「好きだったよ! 大好きだったよ! 今だって……今だって、好きだよ! あの頃を思い出すと、胸が苦しくなって、切なくなって、なんであんな風になっちゃったのかって、悲しくなるよ!」
「だったら、なんで、」
「でも、どんなに待っても傑は帰ってこない!」
「っ、」
「わたしが、前を向いて歩き出すのはそんなにおかしい? 傑のこと、忘れたわけじゃない。ちゃんと思い出にして、それから前に進むのはおかしいの? わたし、傑以外を好きになっちゃだめなの?」
「ちが、」
「……わたし、悟のこと、好きになっちゃ、だめなの……?」

 脳内に、いくつもの光景が現れては消えていく。教室で笑う傑とコイツ。鍛錬で傑に吹っ飛ばされるコイツ。談話室で勉強を教え合う傑とコイツ。怪我をしたコイツを叱りながらも心配する傑。喧嘩する俺と傑の仲裁に入るコイツ。硝子と一緒に俺を揶揄うコイツを、幸せそうに見ている傑。いつからか、俺がコイツを目で追うようになって、そうして、気づいたことがある。傑の隣で、コイツは本当に幸せそうに笑うのだ。へにゃりとした、見ているだけでこっちまで幸せになってしまいそうな笑みが、俺を捕らえて離さなかった。傑に恋しているコイツに、俺は恋したのだった。だから、傑以外の人間に恋するコイツなんて、本当は見たくなかったのだ。ましてや、その笑顔が俺に向けられるなんてこと、考えたことすらなくて。

「オマエ、いつから……っ、」
「悟がいつもわたしのこと、気にかけてくれることは知ってた。わたしが本当に辛いとき、支えてくれたのは悟だったよね。知ってたよ。ずっと。今まで、知らないふりしててごめん」

 俯いた彼女の髪を、ゆるい北風がさらっていく。信じられなかった。頭の奥がじんと痺れて、思考がまとまらない。振り絞るような彼女の声が、俺の鼓膜をかすかに揺らした。

「……悟に。悟に、疵の舐め合いだって、そう思われるのが、怖くて、黙ってた」
「……」
「拒絶されたら、こうやって話すこともできなくなっちゃうって思ったら、ちっとも言えなくて、知らないふり、しようとしてた」

 そんなの。そんなの、俺もおんなじだ。オマエのこと、ずっとずっと好きだったのに、最初から、諦めてた。違う、諦めたふりをしていただけだった。傑の彼女だからって。オマエは傑が好きだからって。そう自分に言い聞かせて、俺はなにもしてこなかった。拒絶されるのが怖かったから。あの笑顔を求めて、応えてもらえないのを恐れたから。とんだ餓鬼だったわけだ。なあ傑、オマエ知ってた? 俺の気持ちも、オマエがいなくなってからのコイツの気持ちも。きっとこの状況を上から見下ろしながら、あのクソ腹立つ顔で笑ってんだろうな。『悟、素直になった方がいいよ』なんて言ってさ。オマエだって素直じゃねーだろ。本当、よく言うよ。

「ごめん、ごめんね、悟、わたし、」
「もういい」

 俯いて震える彼女に近づいた。びくりと跳ねる身体に、ゆっくりと両腕を伸ばす。コイツは動かない。そのまま背中に腕を回して、柔く、優しく、抱きしめた。ふわり、と香るコイツ自身の匂い。抵抗は、されなかった。

「もう、いいから」

 腕の中で静かに頷いた彼女が愛おしくて、苦しいくらいに切なくて、抱きしめる腕に力を込める。初めて触れたコイツはちっさくて、細くて、柔らかくて、そしてあたたかかった。オマエさ、こんなちっせー身体で、いろんなもん背負って、ここまで歩いてきたの、すげーと思うよ。俺の分まで背負っちゃってさ。なあ、これからは俺がオマエの背負ってるもん、半分持ってやるから。そうすればきっと、今より少しは生きやすくなると思うんだ。俺も、オマエも。

「さ、とる、……痛い、」
「なあ、もう一回やり直していい?」
「……なあに?」

 緩めた腕の中で、俺を見上げたコイツの瞳が夕日を反射して、きらきらと光っている。あたたかくて、優しい、オマエの命そのものだった。柔らかく細められた眼に気づかないふりをして、するりと目隠しを外す。赤くなったコイツの頬も、きっと夕陽のせいに違いない。熱い俺の頬も。きらり、と光るその瞳を見つめたまま、ゆっくりと唇を開いた。

「俺、誕生日プレゼントに欲しいものがあるんだけど」
「……なにが、欲しいの?」
「オマエ」

 ふふ、と笑ったコイツが、いいよ、なんて嬉しそうに囁くから。どうしてか目頭が熱くなって、胸が締め付けられるように苦しくなって、それがひどく心地良くて、バァカ、という罵声が漏れた。むっと頬を膨らませたコイツが、何か言おうとしたけれど。それを遮るように、桜色の唇に口付ける。文句なら後で聞く。俺たちは、まだまだたくさんの時間があるから。この先もずっと、一緒に歩いていけたら。腕の中の小さな温もりを、放さないようにぎゅっと抱きしめた。


夕陽

201214