×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -




「悟のこと、諦めようと思う」

 わたしの一言に、傑はピタリと動きを止めた。じりじりとその視線がわたしの横顔を焦がすようだったけれど、なんだか傑の方を向けなくて、じっと自分の膝を見つめる。いつもの傑の部屋だった。いつも通り、夕食後からお風呂までの隙間の時間で、こうやって作戦会議を開いていた。作戦会議とは名ばかりの、わたしの惚気と弱気な発言を繰り返す会だ。主催者は傑。参加者はわたし。二人きりのこの会議も、きっと今日で終わりだろう。だって、もう、悟のこと、諦めるんだから。

「……随分急じゃない? 昨日まであんなに惚気てたのに」
「急じゃない。ほんとはずっと、考えてた」

 本当だった。ここ最近ずっと、そのことをぐるぐると考えてしまっていて、正直食欲もあまりなくなっていた。やっと動いた傑が、両手に持った湯飲みをことりとローテーブルに置いた。ありがとう。小さくお礼を言って、それを両手で包み込む。熱い緑茶はこだわりの茶葉らしく、さわやかな香りが鼻腔をくすぐった。わたしの気持ちとは正反対なそれに、でもなんとなく心が安らぐ。わたしの正面に座った傑が、同じく緑茶の入った湯飲みを口元に持っていき、少し匂いを楽しんでから啜るように一口飲んだ。ごくり、と喉仏が上下するのに、なんだか急に男性らしさを感じてしまって、誤魔化すように緑茶を口にする。あつっ。小さく漏れた悲鳴に、大丈夫? と心配する声が飛んでくる。じんじん痺れる舌先を前歯の裏に擦り付けながら、こくんと頷いた。舌、ちょっと火傷しちゃったな。

「悟、わたしのこと、興味ないみたいだし、脈なさそうだし」
「何度も言っているけど、私はそうは思わないな」
「でも、わたし、ちょっともう、辛いよ」

 消え入りそうな声は震えていて、誤魔化すように湯飲みの口を親指で撫でる。でも、勘のいい傑のことだ。全部気付いているに違いない。わたしの心臓が嫌な音を立てながら走っているのも、指先が氷のように冷たくなっていることも。

「それで本当に、お前はいいの?」
「……うん」
「告白は?」
「……しない。したくない」

 ゆるゆると首を振るわたしに、傑は困ったようにため息を零した。告白して、振られるのが怖かった。オマエなんて興味ねーよって言われるのが怖かった。でもそれ以上に、悟との関係がギクシャクしてしまうのがなによりも恐ろしかった。朝教室に行けば、当たり前に悟がおはようって言ってくれて、ちょっとした言い合いをしたり、馬鹿みたいに笑ったり、そんなぬるま湯に浸かっている今の状況を、手放すのが怖かった。悟が笑ったり、拗ねたり、にやにやしたり、いろんな表情を見せてくれるのは、わたし達が仲間だからだ。でも、わたしが一言「好き」と伝えてしまえば、もう今の距離のまま、一緒にいることはできないだろう。悟は優しいから、振ったあともきっとわたしを気遣ってくれる。その痛いくらいの優しさに、わたしが耐え切れるとは思えなかった。

「だから、告白は、しない」
「……そうか、それは、残念だな」

 ずず、と傑がお茶を啜る。傑にも、悪いことをしてしまった。よく考えれば、わたしは傑の時間を奪ってきたことになる。こうやって、週に何度か一緒にお茶を飲むだけだけど、会話の内容はいつも悟とわたしのことだ。以前、傑に「好きな人、いないの?」と尋ねたことはあるけれど、「さあ、どうかな」とはぐらかされてしまったのだ。それきり、一度も傑の話はしなかった。傑は、ずっとずっと、わたしと悟のこと、応援しててくれたのに、わたし、傑になにも返してあげられない。

「ごめんね」
「どうして?」
「だってわたし、傑になにもしてあげられなくて」
「別に、見返りが欲しくてやったわけじゃない」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけでもないな」
「あ、えっと……あり、がとう」

 どういたしまして、と傑は微笑んだ。そうして、ふと、もう彼とこうやって向かい合って話をすることはないんだな、と思い当たる。任務以外で二人きりになることなど、今まではほとんどなかったのだ。あの日、傑がわたしに話しかけるまでは。「ねえ、もしかして、好きなの? 悟のこと」夕暮れの教室、二人きりの空間。あの時ほど、じっと傑に見つめられことは、なかったかもしれない。傑の、飴色の瞳がわたしをとらえて離さなくて。なぜかぞくりと背筋が粟立ったのを、今でも覚えている。そうして、にっこりと笑った傑は、その形のいい唇を開いたのだ。「私でよかったら、話、聞くよ?」

「思えば、傑とこうやってたくさん話ができたのも悟のおかげかな」
「そうだね、悟にお礼を言わなきゃな」
「え、まって、なんて言うの?」
「ありがとう、だけ。あいつ、絶対『ハァ?』って言うな」
「ふふ、言いそう。あと『急になんだよ、キッショ』」
「はは、間違いない」
「あー、こうやって傑と喋るのも、今日が最後かぁ」
「どうして?」

 傑の言葉が、透明な刃みたいに、音もなく心臓に突き刺さった。あの時と同じ飴色の瞳が、わたしをじっと見つめている。逸らしたいのに、それを少しも許しはしないような、重い重い視線だった。なぜかどくどくと脈が早くなって、湯飲みを包む手が汗で湿る。どうしてって、だって、わたしたちが、こうやって、二人きりで話をしていたのは、わたしが悟のことを相談したかったからで、それ以上は、なにも、

「悟のことを好きじゃなくなっても、またここに来ればいい」
「でも、」
「何か問題がある?」

 問題はない。ちっとも。傑と話をするのは楽しいと、わたしはこの数ヶ月でよくわかった。たわいのない話で笑ったり、怒ったり、そういう時間を、積み重ねてはきたけれど。それは「悟とのことを相談する」という名目に付随してきたものだった。じゃあ、今度からわたしは、どういう理由で傑の部屋を訪れればいいんだろう。

「それとも、もうここに来たくない?」
「そんなことは、」
「理由があれば、来てくれる?」

 傑の鋭い視線に、戸惑いながらも頷いてしまう。なにもやましいことはしていない、はずだけど。突然湧き上がったこの感情は、一体何なんだろう。困惑するわたしに、傑は眉を下げて笑った。

「困らせるつもりはなかったんだ」
「別に、困ってるわけじゃ、」
「今度は、私の相談に乗って欲しい」
「え、」

 思いもよらないお願いに目を見開いた。傑は相変わらず、静かに笑っている。以前一度はぐらかされた話を、傑の方から振ってくるとは思わなかった。相談。傑の。そんなの、イエス以外の選択肢なんてあるはずがない。ずっとずっと、傑に助けてもらってきたのだ。わたしだって、傑の力になりたい。

「だめかな?」
「だめじゃない! もちろんだよ。わたし、傑のためなら、」
「そうか、ありがとう」

 そう言った傑の手がすっと伸びてきて、湯飲み持ったわたしの手をやわく包み込んだから、思わず息を止めてしまった。え、なに? 思わず引こうとした手は、ぎゅっと握られたことにより動くことすらかなわなくなった。傑の手はわたしより一回りも二回りも大きくて、熱くて、硬かった。短く切りそろえられた爪、少しカサついた指先が、わたしの手の甲を撫でる。びくりと震えたのが、傑にも伝わったはずなのに。わたしの手を握ったまま、傑はじっとわたしを見つめていた。息ができない。

「相談っていうのは、私の片思いについてなんだけど」
「ま、って、傑、手が、」
「その子はね、私の親友が好きなんだ。最初からそんなことわかっていたけど、その子の相談に乗るうちにどんどん好きになっていくんだ。笑った顔も、困った顔も、あいつのことを想うキラキラした顔も、切なそうな横顔も、全部全部、好きなんだ」
「す、ぐる、」
「好きだよ、お前が。悟なんかやめて、私にしなよ」

 傑の部屋で過ごした時間が、まるで映画のワンシーンのように流れては消えていく。初めて部屋を訪れた日、悟の失敗に大爆笑した日、片想いが辛くて涙を流してしまった日、いつだって傑はわたしの話をにこにこ聞いてくれた。落ち込むわたしを、辛抱強く励まして支えてくれた。傑は、一体どんな気持ちでわたしの前に座っていたんだろう。言葉を探すわたしを見つめる傑の、飴色の瞳がすっと細まる。ぞくり、と身体が震えたのと、傑の瞳が近づいてきたのは同時だった。え、あ、嘘、待って、

「すぐ、る、」
「黙って、」

 吐息が唇にかかる。身体が動かない。傑の大きな手のひらに包み込まれた両手だけが、じわりと熱くて。だめ、これ以上は。拒絶する言葉を吐き出そうとした瞬間、甲高い電子音が空気を切り裂いた。びくんとお互いの身体が跳ねて、突然呼吸が楽になる。至近距離まで迫った傑から、慌てて身体を離した。先程までの動きが嘘のように、包まれていた両手も解放される。心臓が耳元でドッドッとうるさいくらいに鳴っている。び、っくり、した。声を出すことすらできないまま、音の発信源を見下ろす。ローテーブルの上、わたしの携帯端末が震えている。サブディスプレイに表示されているのは硝子の名前だった。そのまま端末を握って、反射的に立ち上がる。傑がわたしを見上げた。

「えっと、硝子が、呼んでるから、わたし、行かなきゃ」
「……そう」
「お茶、ごちそうさま、」

 傑から視線を引き剥がして、慌てて扉へと向かう。なんだろう、なんだか、ここにいてはいけないような気がして、靴すらちゃんと履かないまま、扉の取手に手をかけたのだけれど。ばん、という重い音が響いて、身体が竦んでしまった。手が。先程まで、わたしを包んでいた傑の手が、扉を押さえるように目の前に現れた。違う。ここの扉は外開きだ。だから、取手を捻れば、すぐ外に出られるはず、なのに。背後に感じる傑の気配に、ぞわぞわと背筋を這う何か。扉と傑に挟まれて、身体はピクリとも動かなくなってしまった。左手を扉についたまま、傑がわたしの耳元に顔を寄せる。吐息たっぷりに名前を呼ばれて、目の前がくらくらした。

「明日、また、待ってる」
「っ、わたし、もう、」
「さっきの言葉は嘘?」

 はっと息を飲む。先程言いかけた言葉が、今になって脳裏に衝撃をもたらした。「――わたし、傑のためなら」待って、そんな、だって、あの時は、こんなことになるとは、思ってもみなくて、

「それに、私は短気だから、」
「ぁ、」

 するりと後ろからまわされた傑の右手が、わたしの顎を捕らえた。そのまま、なぞるように親指が唇を撫でる。震えるそこを、すり、すり、と楽しそうに往復する指先に、呼吸すらままならない。

「お前が来なければ、うっかり、口が滑ってしまうかも、ね」

 そんな。言葉を失ったわたしの耳元で、くすりと傑が笑った。唇を弄んでいた指先が離れて、取手を掴むわたしの手を包み込む。がちゃりと扉が開いて、優しく背中を押されるまま廊下へとよろめき出た。思わず、振り返ってしまう。いつも通りの顔で、傑が微笑んでいた。背筋が冷える。ずっとずっと、毎日、見てきた笑顔だった。彼は、一体どんな気持ちで、わたしにこの表情を向けてきたんだろう。

「じゃあね、」
「す、ぐ、」
「また明日」

 ぱたん。目の前で扉は閉ざされた。ぐるぐると不安定に揺れる心を抱えたまま、ふらふらと自室へと向かう。どうして、傑は、いつから、わたしを、なんで、傑、傑、すぐる。……こんなこと、誰にも言えやしない。とにかく、一度部屋に帰って、落ち着いてから考えよう。手の中の携帯をぎゅっと握りしめた。頭の中が、傑でいっぱいになっていることなど、わたし自身、気づかないまま。


201130