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 目を開けたまま、夢を見ているのかと思った。
 久方ぶりに見た傑は、知らない服を着て、私の前に現れた。少し背が伸びて、頬は痩けた。浮かべている笑みは相変わらず胡散臭くて、言葉を失ってしまう。息を吸い込む。胸を締め付けるノスタルジア。傑に対して、こんな感情を抱くことになるなんて、別れる前は思ってもみなかったよ。背が伸びたなんて感じたこと、今まで一度だってかったのに。だって、いつだって傑は私の隣にいたし、私は傑の隣に居たんだから。昔懐かしいあの日々、私たちは間違いなく二人でひとつだった。いつかは手を離さなければならないと、理解はしていたけれど、じっくりゆっくり、納得して、そうして絡みついた指先を、一つずつ解いていくつもりだったのに。ある日突然、傑は私の手を振り払って一人で歩き出してしまった。その背中に貼られた“最悪の呪詛師”というレッテルを、私は未だ信じられないでる。傑が悩んでいることを知っていた。彼を支えたいと思っていた。だというのに、傑は私に何ひとつ相談せず、忽然と姿を消してしまったのだ。自分の半身を失って、ポッカリと空いたこの胸は、なにを詰め込んでも空っぽのままだった。喪失感に苛まれる私を現実に繋ぎ止めたのは、悟と硝子だった。細い糸を手繰り寄せるように、私まで何処かに行ってしまわないように、慎重に、慎重に、私を引き止める様子を見て、思いとどまったのは記憶に新しい。傑がいなくなった私は、地に足がつかなくて、ふわふわと、どこにでも飛んでいきそうだ、というのは、悟の言葉だったかな。私の気持ちはまるで海に投げられたちっぽけな石ころみたいに、ずんずんと沈んでいたのだけれど、悟たちにはそうは映らなかったらしい。いいよね、悟も硝子も。傑に会えたんでしょ。その一言を飲み込むのに、どれだけの労力を要したのかを、彼らは察しているのだろうか。傑は、私には会いに来なかった。だから、捨てられたと思ったのだ。だから、追いかけなかった。どうして。どうして今更、私に会いにきたのだろう。

「相変わらず、ココア、好きなんだ」

 カフェ内は学生が多く、少し騒がしい。そんな中でも傑の柔らかい声は、私の鼓膜を心地よく震わせた。向かいに座った傑が、ウェイトレスを呼ぶ。女の人が笑顔で寄ってくる。傑がオーダーを通す。カフェラテ、ホットで。復唱したウェイトレスが会釈し、去っていく。傑が私に向き直る。にっこりと笑う。まるで映画のワンシーンを観ているようだった。傑が、私の目の前に、居る。生きて、呼吸をして、私の名前を呼んでいる。信じられなかった。これは夢だろうか。目線を落として、手元のマグカップを両手で包み込む。温かい。困ったような顔の私自身が、私を見つめていた。夢じゃない。ゆっくりと顔を上げると、傑の瞳が、嬉しそうに細められる。夢じゃない、んだ。唐突に、胸の奥から熱いものが込み上げてきて、きゅと喉が締まった。目頭が熱くなる。ぼたり、と流れ出したそれは、すぐにダ ムが決壊したみたいにぼとぼととこぼれ落ちた。テーブルの上を濡らす滴に、傑が困ったように笑う。ああ、いつもの傑の顔だった。

「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだけど」
「っふ、泣かないと、思った、の?」
「……いや、泣き虫だからな、お前は」

 ごめん、という謝罪は、ぽっかりと空いた胸の穴にじわりと染み込んだ。馬鹿、傑の馬鹿、どうしていなくなったの。どうしてなにも言ってくれなかったの。どうして相談してくれなかったの。どうして、どうして私も、

「傑と、話したいことが、いっぱいあるよ」
「なに?」
「傑は……傑は、なにをしたいの?」
「……悟たちから、なにも聞いてない?」

 こくり。額くと、そうか、と傑は自分の顎を撫でた。悟は、なにも教えてくれなかった。硝子も。ただ、傑は自ら望んで高専を去ったことと、きっともう、戻っては来ないだろうということだけを告げられた。それ以外にはなにも、なにも教えてもらえなかった。傑が呪力のない人たちを殺した理由も、傑の目的も、なにもかも。きっと悟も硝子も知っていたのだろう。知っていて、私には教えてくれなかった。仲間だと、思ってたの、私だけだったのかな。

「悟は、相当、名前のことが好きみたいだね」
「…………え?」
「守ろうとしたんだ、お前を。どうせ硝子に口止めをしたのも悟だろ」

 守る? 口止め? なにが? 濁流のように押し寄せてきた疑問を、傑の優しい声がひとつひとつ掬い取ってくれる。「私はね、呪霊のない世界を創りたいんだ」呪霊のない世界?「呪霊がなければ呪いで亡くなる人も居なくなる。苦しむ人が、いなくなるんだ」そんなことできるの?「呪術師だけの世界になれば、呪霊は生まれない。そうすれば、お前が死ぬこともない」でも、どうやって、「簡単さ。非術師〈猿〉は、殺せばいい」こうやってね、と傑は微笑んだ。きゃあぁああ! と悲鳴がカフェの中に響き渡る。呪霊だった。見たことがないけれど、たぶん、傑が使役する呪霊。ギョロリとした目玉が三つと、鋭い耳と、大きな口をもったそいつが、カフェのウェイトレスを、頭からバリバリと食べていた。ああ、あの人さっき傑に注文をとりに来た人だ。どうして。頭が回らない。女性の手から、トレイが音を立てて床に落ちた。床に広がるカフェラテの香りが、血の匂いに混じってここまで届く。一体なにが起きているんだろう。客たちが悲鳴を上げながら出口へと殺到する。店の外は真っ暗だった。帳だ。傑が降ろしたのだろうか。気づかなかった。帳の外には誰も出られないだろう。しかし、誰一人として、このカフェから出ることすら叶わなかった。瞬きの間に、全ての客が肉塊となって床へと転がっていた。息が苦しい。呼吸が浅くなる。息を吸って、吐いて、そうしているのは、私と、目の前
に座る傑だけだった。なにが、起きて、いるんだろう。「名前?」呆然自失の私の名前を、傑が心配そうに呼んだ。傑が、いま、ここに居た人たちを、なんで、どうして。

「ごめん、突然で驚いたよな」
「す、すぐる、私、」

 傑の手が、私の手を優しく包み込む。いつの間にか、マグカップを握りしめていたらしい。力の込められた指を、傑が一本一本、丁寧に剥がしてくれる。あたたかい手だった。あの時、繋げなかった、傑の手だった。子供の頃よりも、硬くて、節くれだった手が、震える私の両手を包む。「名前」傑が私の名前を呼んだ。大好きな、声だった。

「名前、好きだ」

 ぎゅう、と心臓が、掴まれたみたいに痛んだ。いま、なんて。信じられなくて、顔を上げる。聴き間違いだと、そう思ったのに。傑が真っ直ぐ私を見つめていたから、その瞳が、あまりにも真剣だったから、なにも言えなくなってしまった。傑が殺した。今ここにいた、なんの罪もない人たちを。でも傑は言った。彼等のせいで呪霊は生まれると。呪力をコントロールできない人間がいるせいで、呪霊が生まれて、そうして、その呪霊がたくさんの呪術者を殺してきたのだ。高専の頼れる先輩も、可愛い後輩も、私の両親も、そして――許嫁も。だとしたら、彼等に罪はないのだろうか。本当に? わからない。一緒の教室で黒板に向かっていた頃、彼はよく悟に言っていた。呪術は非術師を守るためにある。今の傑が言っていることはその正反対だ。どちらの傑が本当だろう。あの時、私と手を繋がなかった傑か、今、私の手を包み込んでいる傑か。

「す、ぐる、私、」
「……好きだ。好きなんだ、名前が」

 懇願を孕んだその言葉に、今度こそ心臓が止まってしまったと思った。ああ、その一言を、私は、ずっとずっと、ずっと待っていたんだよ。この指先を、もう一度絡めたいと、ずっとずっと思っていたんだよ。止まったはずの涙が、ぼろりぼろりとまた溢れた。本当に名前は泣き虫だな。苦笑した傑が、人差し指で私の涙を拭ってくれるけれど、それは際限なくぼろぼろと零れ落ちろ。すぐる、と鳴咽まじりに呼ぶと、彼の目が切なげに細められた。

「私と来てくれ」
「すぐる、わた、し、」
「呪霊のいない世界を創ろう。一緒に。だから、家族になってくれないか」

 やさしくて、あたたかくて、大好きな手。差し伸べられたその手が、ずっとずっと欲しかった。すぐる、すぐる、私ね、本当はずっと、傑のこと、好きだったの。ぎゅう、と握り返すと、傑が幸せそうに微笑む。知ってる、と甘い声で曙かれて、幸せすぎて、今この瞬間に死んだっていいと思えた。行こう、と手をひかれ、血溜まりの中を歩き出す。傑の左手が私の右手に絡まる。離さない、とでも言うように力を込められるそれが、痛くて嬉しくて。帳が上がる。太陽が照らし出す中、私たちは歩み出した。きっともう、この指先が離れることはないだろう。永遠に。


201101