「オマエ、好きだったんじゃねえの――傑のこと」
ばっと振り向いた彼女の瞳が、こぼれ落ちてしまいそうなほど見開かれる。こちらを見つめるそれを真正面から受け止められなくて、すぐさま視線を外してしまった。彼女のふっくらとした唇は、今は赤いルージュで艶かしく彩られていた。白い首、すらりと伸びた腕と、剥き出しのデコルテが目に眩しかった。胸元を柔らかく包み込む布は息を飲むほどの純白で、彼女が身動ぐたびに新雪のようにきらきらと光った。目の前の彼女は、美しかった。きっと、今まで生きてきた中で、一番、美しい一日だろう。幼馴染の自分が言うのだから間違いない。今日、彼女は、結婚する。この俺と。
「ねえ、」
「あー、いや、なんでもない」
「悟、」
「忘れて」
頭を掻こうと手を当ててから、もう髪はセッティングした後だと思い出す。僅かについた整髪剤を、仕方なく手に揉み込んだ。胸ポケットのチーフは使わない方がいいだろう。確かこれ、使うもんじゃなかった気がする。忘れたけど。椅子に座ったままの彼女がこちらに向き直った。大仰なドレスの下は巨大なパニエらしく、向きを変えるのも大変そうだ。控室には俺と彼女以外誰もいなかった。俺たちに気を使ってか、メイクをしてくれた女性たちや、進行役の男性は席を外している。挙式はあと数十分で始まろうとしていた。始まってしまえば、あとは一瞬で過ぎ去ってしまう。挙式も、披露宴も。そういうものだと担当の男性から聞いていた。だから、この時間がゆっくりお話ができる最後の時間ですよ、とも。そうして、十分ほどしたらお声掛けします、と言って、スタッフたちは去っていったのだ。多分そんなことを言っていた。たぶん。どんな会話をしたか、ほとんど覚えていない。鏡越しに俺に微笑んだ彼女があまりに綺麗で、思考がぶっ飛んだのが現状だった。正直に言う。見惚れていた。彼女に。何年も何年も、片想いを拗らせている彼女に。もっと他に言葉はあったはずだ。綺麗だ、とか、馬子にも衣装だな、とか。本当に、僕のお嫁さんになるの?とか。それらを全部、飛び越えて、出てきた言葉が「オマエ、好きだったんじゃねえの――傑のこと」だ。魚の小骨みたいに、心に刺さっていたことだった。学生時代から、ずっと。あいつと授業を受けていた時も、あいつが離反した時も、そのあと一人でこいつに会いにきた時も、そうして、俺があいつの命を奪った時も。ずっとずっと、引っかかっていたことだった。引っかかっていたくせに、見て見ぬ振りをしてきたことだった。耐えられなかった。そこに触れてしまえば、この関係が崩れてしまうと思っていた。だから、全てを飲み込んだまま、今日という日を迎えたというのに。どうして、いまさら。
「悟ってさ、好きなの? わたしのこと」
「っは、あ? なに言って、」
じっと彼女が見つめてきて、思わず言葉に詰まってしまう。初めて見る瞳だった。真っ直ぐに、真正面から、俺を見つめる瞳。そういえば、こうやって真正面から彼女の真剣な顔を見たのは、ひどく久しぶりのような気がする。結婚を決めた時ですら、彼女はこんなふうに俺を見つめてこなかった。たまたま、彼女が実家近くで任務の日に、俺の休みが取れたから、なんとなく、一緒にお互いの実家に顔を出して、そうして、おばさん――お義母さんが、「あんたたち、いい加減もう結婚したら?」なんて言うから、「じゃあそうする?」「そうしよっか」とその場で結婚が決まってしまったのだった。それから先ははとんとん拍子だった。いや、式場を抑えたりとか、ドレスの試着だとか、席次表やら引き出物やら、やらなきゃいけないことは腐るほどあったけど、ゴールが決まっているのだから全ては時間と金の問題だった。意外なことにこいつは乗り気で、ウェルカムボードは手作りしたいだの、各テーブルに添える花はこれがいいだの、俺が思いもしなかったこだわりを見せるから、とっくの昔に捨てたはずの期待がむくりと腹の中で頭をもたげる。オマエって、俺のこと好きなの? 口から飛び出しそうなそれを、何度も何度も飲み込んだ。だって、そうだろ。拒絶なんてされたら、どうしていいかわからないから。だから、ずっとずっと、胸の内にひた隠しにしてきたのに。なんでオマエはあっさりそんなこと言うんだよ。苛立ちのような感情が湧き上がってきて、それがそのまま唇から飛び出した。素直に「好き」だなんて、絶対言ってやんねー。
「好きでもないやつと結婚する?」
「ふーん」
「なに?」
「悟、わたしのこと全然わかってないでしょ」
「は?」
「わたし、傑が好きだったよ」
その言葉は、薄べったいナイフのように、静かに、俺の心臓を音もなく突き刺した。は、と息を吐いた音だけが、妙に耳にこびりつく。指先がじりじりと痺れて、全ての感覚が遠くなる。痛い。心臓が、肺が、呼吸をするたびに軋むように痛んだ。呼吸? 俺、呼吸してる? 呼吸ってどうやってするんだっけ。息を吸って、吐いて。いつもみたいに。どうやるんだ? 吸ってるよな? なんでこんなに苦しい。目の前が霞む。こいつの瞳だけがきらきら光って、赤いルージュがゆっくりとその形を変える。飛び出してきた言葉が、再び俺を貫いた。
「でも、もう好きじゃない」
他に好きなひと、いるから。
じっと俺を見つめていたコイツの瞳が、楽しそうに細められる。あ? 好きじゃない? もう好きじゃないって、傑を? もうって、やっぱり好きだったんじゃん。オマエ、あんなに好きじゃないって言ってたくせに。いつまで好きだったんだよ。いつまであいつのこと好きで、いつ諦めて、いつから、いつから、傑じゃない、他のやつを。頭が真っ白になって微動だにしない俺を見遣って、コイツは得意げに息を吐いた。ふわり、丁寧に巻かれた髪が宙を舞う。
「その人はね、子どもっぽくて、意地悪で、実は口が悪くて、時間にルーズで、人を馬鹿にしたような態度はとるし、自分の本心を隠したりするし、簡単に嘘つくし、一緒にいるとむかつくことがたくさんあるけど、でも、すごく強くて、本当は優しくて、繊細で、それで、怪我したわたしのこと、おんぶして、家まで連れて帰ってくれる人だよ」
なあ、それって。
言葉を紡げなくなった俺を、椅子に座ったままのコイツはにやにやと見上げてくる。よく見せる顔だった。俺と、硝子と、それから、傑だけによく見せる顔。してやったり、と歪められるルージュが、ひどく場違いで、アホらしくて、コイツらしくて、視界が霞む。目蓋が、まるで火傷したように熱い。鼻の奥がツンとして、ぐっと歯を食いしばった。なんだよそれ。いつからだよ。いや、気付いてたけどさ。気付いてたけど、でも、それを確かめたことは一度だってなかった。ずっとずっと、確かめてしまうのが、怖かったんだよ。オマエさ、今の言葉が、俺にとってどれだけ嬉しいものなのか、絶対、わかってねーだろ。オマエのその言葉だけで、俺が、どれだけ。どれだけ。ゆっくりと、強張った唇を開く。必死に抑えようとしたけれど、声は微かに震えていた。
「オマエ、さぁ。なんで今更そういうこと言うの?」
「だって、聞かれたことないし」
「そういうのはもっと早く言うもんだろ。ちゃんと告白しろよ。じゃないと、」
「じゃないと?」
「……幸せに、できないだろ、オマエのこと」
きょとん、と目を見開いたコイツは、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。予想外の反応に動きを止めた俺を見て、さらにコイツは爆笑する。は? なんだよそれ。俺、今の結構、マジだったんだけど。一応、そういう、つもりで、言ったんだけど。わかってんの? むっと眉根を寄せた俺がおかしかったのか、さらに笑ったコイツは、化粧落ちちゃう! と言いながら彩られた爪の先で涙を拭った。笑いすぎだろ。こちらの緊張まで全て吹っ飛んでしまって、かわりにいつもの調子が戻ってくる。なんか腹立ってきたな。オマエばっかり余裕なの、気に食わないんだけど。未だ笑いのおさまらないコイツの手首をがしりと掴んで引き寄せる。ふらつきながらも立ち上がったコイツの、アップにされた髪が柔らかく揺れる。耳元のアクセサリーも。眉間に皺を寄せたまま、見下ろすようにずいと顔を近づけたけれど、相変わらずコイツの笑いは止まらない。
「おい、」
「あはは、馬鹿だなぁ、悟は」
「はァ?! なにが、」
「わたし、悟がいれば簡単に幸せになれちゃうんだよ」
だから、今までも、これからも、ずっとわたしは幸せだね。そう言って、手首を握る俺の手を、コイツは反対側の手で優しく撫でた。慈しむようなその触れ方に、胸がぎゅっとつまる。長い間、胸に渦巻いていたものが、すっと消え去るのがわかった。いつから俺を、とか、俺のどこが、とか、そんなこと、もうどうでもよかった。彼女がこうやって俺に触れてくれる、今のこの瞬間が、全てだった。そう思ったら、もうダメだった。耐えきれず、その身体を思い切り抱きしめる。「痛いよ、悟」なんていうコイツの声が、あまりにも嬉しそうだったから。だから、抱きしめた腕は緩めなかった。
今まで生きてきた中で、今日が一番、幸せな一日だろう。今日、俺は、結婚する。彼女と。なあ。名前を呼んで顔を覗き込むと、目の前の彼女はなあに? と目を瞬かせる。俺、オマエが好きだよ。あのとき言えなかった言葉を、いま、音に乗せて君に贈るよ。驚いたように目を見開いた彼女は、そして、晴れやかに破顔した。
「わたしも、悟が大好きだよ」
201113