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 深く響く鐘の音に、はっと顔を上げる。周りにいた子供たちも、一斉に外を眺めた。西の森に沈みかけた太陽が、ステンドグラスから差し込んでくる。ついこの間まで長かった日はみるみる短くなって、夜の帳が下りるのは随分と早くなった。だから、村の鐘が鳴る前に子供たちを帰さなければならなかったのに。薄暗くなった聖堂内、子供たちが慌てて帰る支度を始める。

「シスター! 俺たち帰る!」
「みんなでまとまって帰りなさい、森に行ってはだめだからね」
「はーい!」
「ああ、そういえば、隣町で野犬が出たんだった。やっぱり心配だからわたしも、」
「シスター、俺たちそんなガキじゃねえって」
「でも、」
「チビたちはちゃんと家まで送るから」
「そうだよ、シスターはお祈りがあるでしょう? 私たちは大丈夫」
「……そう? 気をつけてね」
「シスター! さようなら!」
「また明日ー!」

 教会の入り口で、手を振る子供たちを見送った。長い影を揺らしながら、少年少女たちは家へ帰っていく。この場所を気に入って遊びにきてくれるのうれしいけれど、町外れにあるこの教会は森に近く、夜になると危険もある。いつもならもっと明るいうちに家へと返していたのに。やってしまった。はあ、とため息をついて木の扉を閉め、重い錠を下ろす。夕飯の準備はとっくに終わっていた。あとはスープを温めるだけだ。すこし掃除してからお祈りをして、そうしてご飯にしよう。祭壇の周りを布で丁寧に拭いていると、重い扉が軋んで開く音。誰だろう。子供たち? 忘れ物でもしたんだろうか。もう外は真っ暗なのに、やっぱり送っていかなくちゃ。振り向こうとして、ドクンと心臓が跳ねる。わたし、扉の鍵、閉めた、よね。さっと血の気が引いた。鍵のかかった扉を、開けられる人物を、わたしは一人しか知らない。

「よォ。邪魔するぞ、と」

 闇が、そこに立っていた。
 黒い外套を翻し、男がこつりと歩みを進める。闇に浮かび上がる血のように赤い髪が、男が歩くたびにふわりと揺れた。ふるふると指先が震えて、それを抑え込むように持っていた布巾をぎゅっと握る。近づく男の、その透き通ったアクアマリンの瞳が嬉しそうにすうっと細められて、反射的に顔を背けてしまった。低く笑う声。ぞわぞわとしたものが背筋を駆け上る。逃げ出したかった。この場から。出来る限り遠く、この男が追ってこられないところまで。そんなこと、出来るはずもないのだけれど。

「な、にか、用」
「つれねぇな。理由がなきゃ来ちゃいけねえのかよ」

 わたしの目の前で立ち止まった男が、バサリと真っ黒のコートを脱ぎ捨てる。どこからともなく現れた蝙蝠たちが、それを丁寧に長椅子へと下ろした。今日は月が明るい。淡く光るステンドグラスのおかげで、周囲は柔らかく照らし出されている。その下に佇む男――レノは、ぞっとするほど美しかった。いつの間にかそのかんばせを見つめていたことに気がついて、慌てて顔を伏せる。真っ白なシャツは汚れひとつないのに、どこからか血の匂いが漂ってくる。レノの指先がわたしに伸ばされた。鋭い爪は黒く、白い肌とは対照的だ。頬をするりと撫でた指先がわたしの顎を掬い、強引に視線を合わされる。尖った耳、ニヤリと笑った唇から長い牙が覗いて、鳥肌が立ってしまう。それは、間違いなく、恐怖だった。

「あー、理由ならあったわ。アンタに逢いに来た」

 べろり、とレノの長い舌が、自身の唇を舐める。あまりにも性的な光景に、身体中の血が逆流したみたいに熱くなる。真っ赤になった頬に気づいたのだろうレノが、にたりと笑みを深めた。そのまま口付けられそうになって、ぐいと胸板を押して抵抗する。無言の拒絶に、しかし目の前の男は楽しそうに目を細めるだけだった。

「や、やめ、」
「なんだ、今更キスくらいで恥ずかしがる仲じゃねえだろ」
「そんな、」
「あんだけオレに抱かれて、生娘だった頃には戻れねえよなあ」
「っ、」

 かぁ、と顔が熱くなる。あまりの羞恥に、涙が出そうだった。熱を持つ目頭に気づいたレノが、べろりと長い舌でわたしの目元を舐める。ぞわぞわとしたものが腰を襲って、身体から力が抜けてしまった。レノの腕がぐいとわたしを抱き寄せる。密着した身体からは、まるで人間みたいな体温を感じた。レノは人間じゃない。吸血鬼――ヴァンパイア、だ。夜の闇に生き、人間の血を吸って生きる卑しい生物。その力は成人男性の何倍もあり、姿形は美しく、見た者の魂を奪ってしまう。ぎゅっと唇を噛み締める。大丈夫、わたしの魂は奪われていない。身体は穢されても、心は違う。わたしの全ては父なる神のものだ。決して、この男に奪われたりなどしない。キッと睨み付けると、一瞬きょとんと目を見開いたレノは、その淡い色の瞳を三日月のように妖しく細めた。

「反抗的だな、と」
「わたしの全ては天にまします我らの父のもの。貴方みたいな卑しい者には決して穢すことなど、」
「あ? あんだけヨガってたくせになに言ってんだよ、と」
「ひゃ、っ!」

 突然レノの左手がするりと首筋を撫でたので、変な声が口から飛び出した。満足そうに笑ったレノが、くく、と喉の奥で笑う。悔しい、こんなこと、あってはならないのに。わたしの身体のはずなのに、まるでわたしの身体じゃなくなってしまったみたいだった。あの日から、レノと出会ったあの日から、わたしはおかしくなってしまったのだろうか。

「身体は素直、ってのはこういうことだな。口ではどうとでも言える」
「そんなことは、」
「忘れたとは言わせねえよ? おまえが望んだからオレは抱いた。そうだろ?」
「っ!」

 あの日も、月が明るい夜だった。近隣を騒がせていた野盗が、この教会を襲ったのだ。その日は町の祭りの前夜で、準備に明け暮れる親たちのために一晩子供たちを教会で預かっていたのだ。それを野盗たちは知っていたに違いない。教会に押し入った彼らは、子供たちを人質に金品を巻き上げようとした。野盗たちの要望を伝えるために教会を追い出されたわたしが、町の中心部へと走って向かう途中で出逢ったのが、この吸血鬼だったのだ。

――随分困ってるようだな、と。

 あまりの美しさに息を飲んだことを覚えている。そうして、その出で立ちから、彼の正体を瞬時に見抜いたのだ。あまりの恐ろしさに身体は震えたけれど、でも、今はそれどころではない。わたしが夜盗のことを町の人々に伝えなければ、子供たちは殺されてしまう。硬直してしまったわたしに、レノは楽しそうに囁いたのだった。

――助けてやろうか?

 その代わり、お前を寄越せと。嫌なら断ればいい、子供たちは助からないだろう、と。そう言ってレノは低く笑った。野盗は顔を見た子供たちを生かしてはおかないだろう。おまえも一緒だ。強姦されて殺される未来などわかりきっている。どうせ抱かれるなら、オレに優しく抱かれた方がいいだろ? ああ、まあ、ちょっと血は貰うけどな。大丈夫、殺しはしねえよ。子供は助かる、オレは血を貰う、おまえはオレに抱かれる。誰も損しちゃいねえだろ。さあ選べ、おまえはオレにどうして欲しい?
 それはまさに悪魔の囁きだった。子供たちを助ける力が、わたしにはなかった。どうしようもなかったのだ。そうして、わたしはレノに懇願した。抱いて欲しい、と。にたりと笑ったレノは「その言葉、忘れるなよ」という言葉を残して闇に溶けるように消えた。野盗のことを告げ、武装した町の人々と共に教会に戻ると、そこは地獄のようだった。聖堂内に充満するむせ返るほどの血の匂いと、おびただしい血液。ぞっとするような光景だったけれど、しかし、死体はひとつとして残されていなかった。そうして、奥の小部屋で、子供たちは全員すやすやと眠っていたのである。レノの仕業だと、瞬時にわかった。わたしがレノに助けを求めたからだと。シスターがヴァンパイアに助けを乞うたなどと、言えるはずもない。吸血鬼の存在などなにも知らない人々は、口々に「神が救ってくださった」と泣いて喜んだ。神などではない。それは悪魔だった。そうして、大人たちが子供を連れ帰り、たった一人教会に残されたわたしの目の前に、再びレノは現れたのである。

「オレはどっちでもよかったんだぞ、と。餓鬼共が死んでも野盗が死んでも、オレにとっちゃ何も変わらねえからな」
「や、やめ、ぁっ」
「でもおまえはオレに抱かれるのを選んだ。なあ、あんときみたいな声、もう一回聴かせてくれよ」
「やだ、さわらないで、っふ、」
「っは、やべ、ぞくぞくする」

 顎を掴む指先に力が入ったと思ったら、噛み付くように口付けられた。鋭く尖った牙が引っ掛かったのか、びりりとした痛みが唇に走る。レノの熱くて長い舌が、ぬるぬると傷口を抉るように舐め回した。逃げたくても、強く腰を抱かれていて身動ぐことすらできない。口内に侵入してきたそれが、ぐちゅぐちゅと中を蹂躙する。縮こまっていたわたしの舌は引き摺り出され、ずりずりと唾液を擦り込むように絡め取られる。どんどん送り込まれるそれに耐えきれず、ごくりと飲み下してしまった。どく、どく、と心臓が鼓動を早める。前もそうだった、レノにキスをされた途端、身体が燃えるように熱くなって、お腹の奥が疼いて、そうして、あんなに、乱れてしまったのだ。呼吸ができない、苦しい、気持ちいい。頭が破裂しそうになって、やっとレノの舌が去っていく。傷にちゅ、とキスをした唇は厚くて柔らかく、その感覚だけで腰がぞわりとした。はぁ、と信じられないくらい甘い吐息が漏れてしまい、レノが満足そうに唇を吊り上げる。いつのまにかスカートはたくし上げられ、剥き出しの太腿を這う大きな手。必死に腕を突っ張ったけれど、レノはびくともしない。それどころか、ぐいと抱き締められ、耳元で吐息たっぷりに囁かれた。

「なあ、野犬の噂、知ってるか?」

 さっと血の気が引く。隣町で、子供が野犬に襲われたという。被害はちらほら出ていて、それがこの町に近づいているのが気がかりだった。町の人との会話でもその話題で持ちきりだが、しかし、どうして吸血鬼であるレノがそんなことを知っているのだろう。息を飲んだわたしを、レノは目を細めて見つめる。心臓がどくどくと走った。この男は、なにを知っているのか。呼吸が浅くなって、手に汗が滲む。わたしの変化を十分に堪能してから、レノはゆっくりと身体を起こした。正面からわたしを射抜くアクアマリンの瞳。わたしの血で濡れた唇が、にたりと歪んだ。

「あれは野犬じゃねえ。――人狼だ」

 人狼。人の肉を食らうけだもの。満月の夜、人型になったその獣は、町を襲って人々を恐怖の底へと落とすという。満月。ああ、と小さな声が漏れた。十月三十一日、今日は、満月だ。

「群れから逸れた人狼が一匹、南の森に棲んでる。狼の姿で町を襲っていたらしいが、なかなかうまくいかなかったらしいな。それほど被害は出てねえだろ? まあ…………今日は、どうだかな」

 ぶるぶると震えるわたしの手を取って、レノは指先にキスをした。慈しむように、ひとつひとつ、優しく、丁寧に。伏せられた睫毛は長い。その唇から牙が覗いて、人差し指が彼の口の中へと消えていく。柔く歯を立てられ、唾液を絡めた舌が丹念に指先を舐める。ぞくぞくした。上目遣いでわたしを見たレノが、ゆっくりと指先を離す。銀色の糸がとろりと繋がって、ふつりと切れる。熱の篭った瞳。歪んだ唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「人狼一匹、オレにとっちゃ大したことねえ」
「っ、」
「なあ、名前、おまえはオレにどうして欲しい?」

 そんなもの、もう答えは出てしまっているのに。涙まじりの懇願に、吸血鬼は満足そうに微笑んだ。


悪魔の賛美歌

201031