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「嘘でしょ、」
「残念ながら、本物だよ」

 久しぶりだね、名前。そう言って傑は笑った。綺麗な微笑みだった。彫刻みたいな完成された美は、しかし全く温もりを感じさせないような、造られたものだった。緑あふれる山奥のバス停。廃れたその場所にやってくるバスは日に3本しかなくて、最後の1本を逃すまいと、先ほどそこそこに強い呪霊を持てる力を全てぶつけて祓ってきたのだった。結果、それなりの時間をこの古ぼけたベンチと申し訳程度の屋根しかないバス停で過ごす事になってしまったのである。もちろん圏外なので、誰かと連絡をとることもできない。仕方なく、持ち歩いていた文庫本を開いて時間を潰していたわたしの元に、彼が現れたのだった。

「なにしに来たの」
「特に用はないさ」
「用もないのにこんな山奥に?」

 答える気がないのか、傑はただ笑っただけだった。柔らかい風が吹いて、木々を、わたしの制服のスカートを、揺らしていく。傑の法衣も。見慣れない袈裟は仰々しくて、喉に小骨が刺さったような違和感を与える。身体の内側から悲鳴のような叫びが飛び出しそうになって、それを必死で飲み込んだ。身体中の血液が心臓に集まったみたいに、指先が冷たくて、震えて、目眩がした。心臓はどくどくと嫌な音を立てているのに、頭だけは変にクリアだ。それとも混乱しているのかな。わからないや。手元に目線を落として、本の続きを読み進めるけど、全然頭に入ってこない。指先が震えて、ページを捲ることすらうまくできなかった。言いたいことがたくさんあったはずなのに、わたしの中にあるそれは、言葉にしようとするたびに、まるで砂のお城みたいにさらさらと崩れてしまうのだ。ねえ傑、そんな服、似合わないから脱いじゃいなよ。傑には高専の制服が似合ってるよ。胡散臭い笑顔は昔からだけど、今の笑顔は好きじゃないよ。前はもっと意地悪な顔で笑ってたじゃん。悟に馬鹿にされたわたしを、さらに騙そうとしてきてたじゃん。いつも硝子が呆れてたよね。ねえ、硝子には会いに行ったんでしょ。悟とも話をしたんでしょ。どうしてわたしのところには来てくれなかったの。最後までそんなそぶりを見せないで、突然消えたのはどうしてなの。仲間だと思ってたのに。それとも、わたしが傑のことを見ていなかったのかな。あんなに近くにいたのに、傑が悩んでいたこと、苦しみを抱え込んでいたこと、全然気づけなかった。わたしは傑のなにを見ていたんだろう。傑はわたしを見ていてくれたのにな。傑が居なくなって、初めて気付いたよ。わたしが辛いとき、苦しいとき、いつも声をかけてくれたのは傑だったよね。話を聞いてくれたのも、そばにいてくれたのも。いつだって傑がわたしを支えてくれたから、そんな傑にわたしは甘えていたのかもしれなかった。

「名前、」
「なに、」
「ずっと好きだった」

 ぴたり、とページの端を弄んでいた指が止まる。秋風が、わたしの髪を撫でていった。ゆっくりと顔を上げると、わたしの正面に立った傑は、その切れ長の瞳でわたしをじっと見つめていた。揺れるその瞳が、熱を孕んで濡れていた。ああ、その瞳をわたしは知っている。ふとしたとき、傑はそうやってわたしを見つめてくれていたけれど、臆病者のわたしは、その視線に気づかないふりをして、いつもすぐ目を逸らしてしまった。馬鹿だなわたし。こうやって、完全に袂を分かってから、やっと正面から見つめることができるなんて。

「わたしも、」

 小さく漏れた声は震えていた。傑の瞳が、少しだけ、見開かれる。ああ、その顔は、知ってるな。懐かしい顔だった。4人で集まって、覚えてないくらい下らないことを言って、笑い合ってた日々に、よく見た顔だった。懐かしいな。懐かしいものになってしまった。それがどうしようもなく悲しくて、目を伏せてしまいたくなる。傑は、少し言葉に詰まった様子だったけれど、すぐに得意の笑みを貼り付けた。でも、眉は困ったように下げられている。傑の口が開かれる。厚いくちびる。キスをしたいな、なんて思っていたのが、遠い昔のようだった。

「名前は、悟が好きなのかと思ってた」
「嘘でしょ」
「……うん、嘘だよ」
「馬鹿じゃないの、傑も」

 わたしが、誰のことを好きかなんて、傑はわかっていたんでしょ。わたしが、誰と一緒にいる時が、一番幸せなのか、傑が一番知っているでしょう。わたしだって。わたしだって、わたしといるときの傑が、一番柔らかく笑うこと、本当はずっとずっと、知ってたんだよ。罰があたったのかな。傑の傍があたたかくて、ぬるま湯に浸かっているみたいに心地良くて、この場所を失うことを恐れていたから。名前をつけたら変わってしまうかもしれないこの関係が愛おしくて、失くしたくなくて、傑の気持ちから目を逸らして。馬鹿なわたし。だから、大切なものが見えなくなっちゃうんだ。

「馬鹿、か……そうかもな」

 好きだった、と傑は言った。わたしも、とわたしは返したけれど、本当はそうじゃなかった。好きだったんじゃない、今も、傑のことが、好きだった。本当は、全てを投げ出して、傑の手を取ってしまいたかった。でも、すべてを投げ出すには呪術師という鎧は重すぎたし、失ったものが多かった。それでも。傑が手を差し伸べてくれたら、その瞬間になにもかもを捨て去る覚悟ができるのかもしれなかった。弱い自分が嫌になる。結局わたしは、傑も世界も、どちらも選べなかったのだ。川を見つめる犬と同じだ。欲張りな犬は、わん、という一言で、結局すべてを失うことになる。それが怖くて、わたしはなにも云えないまま、じっと水面を見つめているだけだった。本当に欲しいのなら、なりふり構わず川に飛び込めばよかったんだ。傑がいなくなったのなら、見つけられるまで探せばよかったんだ。そうして、その手を掴んで、戻ってきて、って、何度だって言えばよかったのに。傑の目を見ていられなくなって、再び視線を落とした。擦り切れるくらい読み直したこの本は、傑がくれたものだった。置いていかれたわたしに残された、唯一のもの。ぱたんと本を閉じて、その背表紙を撫でる。拒絶されるのが怖くて追いかけなかったなんて、本当にわたしは馬鹿だなあ。

「名前、」

 懐かしい香りだった。わたしの頬に触れた指先から、傑の香りがする。それがこんなにも悲しくて、胸がいっぱいになって、溢れ出した感情がぽろぽろと流れていく。傑の、大きくて、硬い指先が、優しく下瞼を撫でる。どうしてだろう。こんなふうに傑が触れてきたのは初めてなのに、こんなにも近くにいるはずなのに、傑の心は前よりもずっとずっと、遠くにいってしまったみたいだった。優しい指先が、零れ落ちる滴をひとつひとつ拭ってくれる。それが、嬉しくて、切なくて、哀しかった。

「すぐる、」

 名前を呼ぶ声は震えていた。続けた「好き」は言葉にならなかった。「行かないで」と言えなかった。伝えても、傑はきっと行ってしまうから。わかっていながら口にできるほど、わたしは子供じゃなかったし、この手を振り払えるほど大人にもなりきれなかった。中途半端だ。わたしも、傑も。

「名前、」

 ずるい。そんなに優しい声で名前を呼ばれたら、なにも言えなくなってしまう。こんなところで会わなければ、「好きだった」なんて言われなければ、この感情だっていつかは風化していくに違いなかったのに。

「私のことは、忘れてくれ」

 ずるい。そんなこと、一ミリも、思っていないくせに。本当に忘れて欲しかったら、会いにこなければよかったのだ。こんな風に、愛しむように、触れなければよかったのだ。「好きだった」なんて、言わなければよかったのに。断る理由ばかりを並べ立ててから、愛を告白するなんて、本当に傑はずるいね。あたたかい傑の手が、名残惜しげに去っていく。はたはたと落ちた涙で、本の表紙はふやけてしまった。それをなぞるわたしの手を取って、傑が静かに口付ける。熱くて、柔らかくて、哀しい唇だった。震えていた。ただ触れるだけのそれが、どうしようもなく切なくて、愛おしかった。ねえ傑、時間を巻き戻せるのなら、どこからやり直せばいいのかな。離れるのがこんなに苦しいのなら、わたしたち、出会わなければよかったのかな。もっと上手にお互いを、愛せればよかったのにね。不器用なわたしたち、きっと忘れることもできやしない。


残花

201024