「悟の部屋、行っていい?」
メールが届いてからゆうに30秒は硬直していた。部屋の時計は1時を少し過ぎたところだ。夜の。こんな時間に男の部屋を訪ねる意味を、あのバカ女はわかっているのだろうか。いや、わかっていないから軽率にこんなメールが打てるに違いない。俺じゃなかったらアイツ、とっくに食われてるだろ。呪霊じゃなくて、男の方に。俺は食う気ねぇけど。いや、あいつがどうしてもって、悟さま抱いてくださいって、懇願してきたら、抱いてやらないことも、ない、が。そんなこと、天地がひっくり返ってもねぇだろうな。顔を合わせれば軽口の応酬が始まるこの関係は、ぬるま湯に浸かったみたいに心地良くて、だから、今の関係に甘んじている。別に、不満は、ない。だから、こいつの申し出には「アホだろ。さっさと寝ろ」がベストアンサーだ。それはわかっているのに、さらに10秒経過しても、俺の親指は動くことがない。いや、違う、わかっている。たぶんなんかあったんだ。どうせ禄でもない夢でも見たんだろう。まずは硝子に連絡しようとして、今日は任務だってことを思い出したはずだ。そうしたら、消去法で俺か傑しかあいつには残されていない。歌姫先輩に連絡するほどは肝が座っていないし、七海たちに縋るほどには低いプライドを持ち合わせていない。
傑には――傑には、まだ、連絡していないといいな。ぽろりと漏れた本音を掻き消すように、ガシガシと頭を掻いた。いや、別にいいけど。連絡してても。でもその場合、断られて俺に連絡してきたってことになんのか。あーくそ、それ、すっげえ腹立つ。唇を真一文字に結んで、返信を打つ。「悟って本当に名前のこと、好きだよな」数日前の傑の言葉がリフレインして舌打ちまで漏れた。あの時も俺の部屋で4人で集まってたな。マリカーであいつのことボコボコにしたあと、ビリだった名前は文句を言いながらコンビニまで買い出しに出た。それに硝子が付いて行ったため、部屋に残されたのは俺と傑だった。「好きじゃねえよ」まだ、は口に出さなかったけど、傑の唇が嫌に捲れ上がったのでなんとなく不快で枕を投げつけたのだった。いつ告るの、じゃねえよ避けんな。俺からは絶対に告らないしなにもしない。へえ、頑張って、と言った傑の顔がなんともうざくて、そこから喧嘩になったんだったな。帰ってきた名前たちが止めてくれたけど、そうじゃなければまた担任に呼び出されていたはずだ。教師って苦労するよな。俺だったら絶対になりたくねぇ。
「あー、クソ、」
メールを送り返して、ぼふんとベッドに横になる。ぐんぐん伸びる身長を考慮して特注サイズで注文したそれは、柔らかく俺の体重を受け止めた。乱暴に使っても、軋む音すらしない。煩くなくていい、と考えてから、かっと熱が頬に集まった。くそ、変なこと考えた。がばり、と身体を起こして、再び頭を掻く。
「ゲームでもするか」
傑には、連絡しなかった。
***
「ごめん、寝てた?」
「……いや」
「そっか」
「…………ま、入れば」
「うん、ありがと」
扉を開けて後悔した。やっぱり傑、呼べばよかった。できるだけ名前を視界に入れないように注意して、ローテーブルの前に座る。ベッドに寄りかかりながら、コントローラーを握った。中断していたバトルを再開しながら、脳内では全然別のことを考える。なんでこいつパジャマなんだよ。バカだろ。いや、パーカー羽織ってるけど、どう見たって下に着てるのパジャマだろ。寝てたのかよ。寝癖ついてたし。どうせ変な夢でも見たんだろ。お前が考えてることなんて全部お見通しだっつうの。
「座れば」
「うん」
突っ立ったままの彼女に声をかけたら、小さく頷いてから俺の隣に座るものだから息を呑んだ。いや、近いだろ。服越しに体温すら感じ取れてしまいそうで、ごくりと唾を飲み込む。なんで隣なんだよ。傑とかいねえし、いつもみたいに我が物顔でベッド占領しろよ。いやまて、ベッドはまずい。それはちょっと、よからぬことを期待してしまう。いやでもこいつのことだ、俺のこの思考すら一ミクロンも理解していないだろうし、最悪他人のベッドでぐーすか寝ることすらありえる。よかったな、俺が紳士で。例えお前が腹出して寝てたとしてもこれっぽっちも興奮しねーから。だってまだ好きじゃねえし。
「あ」
復帰コンボをミスった緑色の生物が、敵に叩き落とされて画面外へと消えていった。Game Set! の文字が現れて、やっと負けたのだと知る。つか俺いつ死んだっけ。残機無くなったのすら気づかなかった。クセでボタンを連打していたから、画面はキャラクター選択場面へと戻ってきた。さて、どうするべきか。このままゲームを続けるか、それともこいつの話を聞くべきか。いつもだったら聞いていないことまで勝手にベラベラと喋るこいつが、じっと黙ったままなのも薄気味悪い。部屋には軽快なBGMが流れているだけで、聴き慣れたそれがなぜが緊張を誘った。仕方ねぇな。俺から話を振ってやるとしよう。仕方ねぇから。できるだけ自然に名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、とん、と肩に触れた熱に心臓が跳ねた。さらり、名前の髪が俺の腕にかかって、鼻をくすぐるシャンプーの香り。ごとん、とコントローラーが床に落ちた。半開きになった唇がわななく。俺の肩に寄り掛かったまま、名前がすり、と身体を寄せてきて、止まっていた心臓が悲鳴を上げながら走り出した。どくどくという鼓動が耳元で聞こえる。こんなふうに、触れ合ったことなど、一度もなかった。こいつから、俺に、こんなふうに、触れてきたことなど、一度も。浅くなりそうな呼吸を、必死になだめる。名前が触れている場所が、じりじりと焦げそうなほど熱かった。左手を、彼女に気付かれないように、そっと背後に回す。どうするべきか、肩を抱くか、腰を引き寄せるか。流石に突然キスしたら怒るか? いや誘ったのはお前だし。後ろはベッド、ああ、くそ、ゴムまだあったか? 一瞬にして濁流のように流れていった思考は、しかし名前が俺の名前を呼んだ瞬間にさっと引いてしまった。絞り出したような、掠れた涙声。不安げに揺れるそれは、それこそ、一度も聞いたことのない声だった。
「悟が、」
「……あ?」
「悟が、死んじゃう夢、見た」
ぐす、と名前が鼻を啜る。行き場のなくなった手をベッドに下ろして、天井を仰ぐ。――そういえばこの間、先輩が一人亡くなった。二級呪術師で、めちゃめちゃに強いわけではなかったけれど、真面目に、堅実に仕事をこなしていくタイプ。こいつとは相性がよかったし、なによりこいつは先輩を実の兄のように慕っていた。俺もこいつもその先輩の死に目に会ったわけではないが、その現場が凄惨を極めたことは話に聞いていた。はらはらと零れ落ちる涙が、俺のスウェットを濡らしていく。ほらな、予想通りだ。禄でもない夢見たんだろ。いや、まさか俺が死んだ夢だとは思わなかったけど。小刻みに震える名前が、俺の右手をぎゅうと握った。冷たい指先。細くて、小さくて、力任せに握り返したら折れてしまいそうなほど頼りないそれが、縋るように絡められる。「呪術師に後悔のない死はない」。先輩は、どんな後悔をしながら死んでいったのだろうか。死んだことのない俺に、わかるはずもない。
「悟は、死なないでね」
「は? 俺が死ぬわけねぇだろ」
「でも、」
「お前と違って、俺はデキる男だからな。死なねぇよ」
「……うん」
力ない返事に心臓がきゅうと締め付けられた。くそ、こいつがしおらしいとこっちまで調子狂うな。ベッドに置いていた左手をゆっくりと持ち上げて、名前の髪をくしゃりと撫でた。男の俺と違って、手入れされているのだろうそれはひどく心地いい。ふわりと再び香るシャンプーの匂いに、淡い期待がまたむくむくと膨らんでくる。いや、さすがに、泣いてる女抱く趣味はねぇわ。泣くまで抱くならまだしも。それに、俺はこいつの涙には弱いんだよな、認めたくねぇけど。ぎこちない動きで頭を撫でていると、だんだんと名前の呼吸が落ち着いてくる。どうやら涙も止まったらしく、気付かれないようにほっと息を吐く。深い呼吸を繰り返す名前の、俺の右手を掴む指先からも力が抜けて、って、お前、まさか、嘘だろ。
「おい、名前、」
「…………すぅ」
信っじらんねぇ。こんな夜中に、男の部屋で、腕に抱かれながら、寝落ちするって、お前、どんだけ危機感ねぇんだよ。ナニされても文句言えねぇよ? 俯いた顔を覗き込む。ふっくらとした唇と、涙の跡の残る頬。それから、うっすらと隈ができた目元。至近距離でそれを見つめてから、はあ、とため息を吐いた。本っ当、俺じゃなきゃ食われてるからな、お前。ぴくり、と握ったままの指先が動いたので、反射的に握り直してしまう。細い指と桜貝のような爪。ちっさいこの手に、どれだけのものを抱えようとしているのだろうか。重いならば捨ててしまえばいいのに、負けず嫌いで優しいこいつはそれをしようとしない。だからこそ、こんなにも愛おしいのだろうか。俺の手のひらにすっぽりと包み込まれた手を引き寄せて、その指先に触れるだけのキスを落とした。呪術師に後悔のない死はない。こいつの夢の中の俺は、この小さな手を護り切ることができたのだろうか。最期に彼女に会えたのだろうか。たとえ何も話せなかったとしても、この温もりさえ失わなければ、きっと悔いは残らないはずだ。だから、頼むから、俺より先に死んでくれるな。もう一度、祈るように、音もなく指先に口付けた。その懇願に名前をつけるなら、それは正しく愛だった。
指先で紡ぐ
201020
大好きソラオさんへの誕プレお礼で書きました、初五条さんです。口調が迷子だけど許してください!プレゼントありがとう〜!!