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07



  雨は、好きじゃない。
 週末から降り続いている雨は、天気予報によると明後日まで降り続けるらしかった。重苦しい空は、灰色というよりもむしろ黒に近い。不機嫌さを隠そうともせずに、長く息を吐いた。雨は、嫌いだ。雨に濡れて服がべたつくし、なにより机が湿気てしまっては突っ伏して寝ることもできない。それに、


「(あの日、を、思い出す……)」


 横たわる男たちと、血まみれのバットを握った俺。叩きつけるような雨、流れる名前の血と涙。その光景を思い出して、思わず俺は眉を顰めた。掠れる事のない、色鮮やかな俺の記憶。彼女の涙。名前は自分の感情を表に出すことが少ない。それでも俺は、昔から名前の本心を、少ない表情の変化から汲み取ってきた。昔からだ。それなのに、あの時、彼女が胸の内に抱いた感情を、俺はまだ分からずにいる。わかりたくない、のかもしれない。だから何年も、あの日の出来事が、胸の奥で燻っているのだろうか。あの涙を見て、護ろうと心に誓ったことは確かなのに、名前の泣き顔が、俺の心臓をギリギリと締め付けている。いつまでも。脳裏に焼き付いたそれを振り払うように、俺は思わず瞼を下ろした。だめだ。乱されるな。自身にそう言い聞かせたが、苛立ちは募るばかりだった。嗚呼、苛々する。俺の知らない名前、それだけで、気が狂いそうだ。


「チッ」


 漏れた舌打ちを聞く者など、教室には誰一人居なかった。否、校内にすら、生徒は数えるほどしか残っていないはずだ。静かな教室内は、時計の音が酷く響く。机の上に広げられた日誌に目を落とした。日直だなんて至極面倒なものを、どうしてやらねばならないのか。押しつけられたわけではないだけマシと考えるべきか。どう考えても“沢田綱吉”が、押しつけられた仕事を断るとは思えない。溜息をひとつついて、俺はまたペンを握る。早く終わらせてしまおう。小波立つ心を、無理やり抑えつける。ああ、どれもこれも、雨のせい、だ。





***





 その光景に、ヒュ、と喉が鳴ったのが俺にはわかった。凍りついた心臓は、次の瞬間から異様な速度で血液を送り出しはじめる。相変わらず雨は降り続いており、じめじめとした湿気が俺を取り巻いている。校内に残る生徒は、数えるほどしか残っていない、はず、なのに。どうして、


「意外だ」
「なにが?」
「沢田、俺の名前知ってたんだな」


 ああ、だから、だから、雨は嫌いなんだ。見たくもないものを、見て、しまう。


「なんつーか、その……沢田ってさ、ちょっと変わってるっていうか、」
「変わってる?」
「言っとくけど悪い意味じゃねーからな。んー、雰囲気が、変わってる」
「雰囲気、ねぇ……」
「周りのことに興味、あんまりねーみたいだし」


 そう言って、男は何の気なしに頬を掻いた。会話が、水の膜を通したように、俺の中で反響する。あたまがぐらぐらした。ぼそぼそと紡がれるそれが、雨音と混じって吐き気がする。腹の中が煮えたぎるようだった。握った拳が震える。男の言葉を否定し、名前は苦笑を漏らす。それに、その表情に、ぞわりと身体の内側が震えた。間違いない、はぐらかそうとしている表情、だった。彼女は、俺に対してもよくあの笑みを漏らすのだ。たとえば、体調が悪いのを見破ったとき。たとえば、つらい現状にひたすら堪えているとき。悟らせまいという努力を見破られたときの、取り繕ったようなその微笑み。彼女の心情を読みとる、数少ないサイン。俺は、いつも、彼女の一番近くでそれを見てきた。俺だけが、彼女の、名前のことを、わかっている、はず、なのに。


「持田くん、帰らないの?」


 俺の煮えたぎる心情など知らない名前は小首を傾げながらそう述べた。やめろ。頭の中で声がする。やめろ。傘がないと知ったら、名前は間違いなく男子生徒とともに帰ると言い出すだろう。そんな光景、死んでも見たくなどない。


「途中まででよかったら、入っていく?」


 やめろ。言葉は音にならなかった。肯定する言葉が耳に飛び込んできた瞬間、持っていた鞄が肩からずり落ちた。人気のない昇降口に響くには、その音はいささか大きすぎた。振り向く二人。カラカラに渇いた喉が、少し痛んだ。


「ねえ、さん」


 思ったよりも硬い声が出て、誰より俺自身が驚いた。しかし、そんな俺に全く気付かなかったのであろう名前は、見開いた目を細めて、ふわりと笑った。


「綱吉も、まだ居たの?」


 鈴の鳴るような声に、柔らかな微笑み。いつもだったらそれで、俺も微笑み返すはず、だった。いつもだったならば。血液が、逆流しているかのように熱く痛んだ。俺の視線は名前から、隣に立つ男子生徒へと流れるように移動する。薄暗い昇降口、蛍光灯の下に立っている二人は、俺のほうからでも子細なまでに様子が窺える。反対に、向こうからしてみれば、俺が真っ暗な場所に立っているように見えるのではないだろうか。じくじくと腹が痛む。俺は闇の中に立っているのに、名前は、名前と男は、


「誰だ、お前」


 呻くような低音。男にも、名前にも、耳に届いてはいないだろう。しかし、声は聞き取れなくとも、剣呑さを孕んだ視線に、男は気付いたようだった。びくり、と身体を硬くした男の額に、玉の汗が浮き出るのが窺える。俺の理性などは、疾うに吹き飛んでいた。自分の感情を、必死で制御しようとすればするほど、体の奥底から何かが湧きあがってくる。己の瞳が、鋭く殺気立っていくのがわかる。ぎらつくそれが男を刺す。そこは、名前の隣は、俺の場所、だ。


「綱吉? どうしたの?」


 名前が、男子生徒の異変よりも、俺の異変に敏感だったのは、この場面では救いであった。眉尻を下げ、俺に駆け寄る。彼女が俺の瞳を覗き込む前に、俺は瞼を下ろした。全ての色が、景色が、視界から消え失せる。こんなにも殺気立った瞳を、彼女に見せるわけにはいかなかった。目を瞑った俺の額に、名前は手を当てる。


「うーん、熱はないみたいだけど。調子悪いの?」
「……ううん、大丈夫だよ、姉さん」


 ひんやりとした名前の手が心地よい。せりあがってくるさまざまなものを押さえこんで、俺は笑みを一つこぼした。怪訝そうに俺を見つめながら、名前は「そう?」と呟いた。俺は名前から視線を男へと流した。びくりと震える男子生徒。


「それより、先輩、傘、貸しましょうか?」


 にこり、微笑む。ぐるりぐるりと胎の中をのた打ち回る熱い何か。吐き気がする。ぶら下がった感情が、奇麗なのか、汚いのか。俺にはまだわからない。しとしと降り続ける雨、肌を這う不快感。ああ、だから、雨は好きじゃない。











120501  下西 ただす





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