指を掛けてくるくる回す鉄の刃。長らく慣れ親しんだものだから使い勝手など知れている。比較的危険とされるその戦輪を愛しく思っている人間など学園内ではただの一人しかいない。


「平」
「はい」
「投げてみろ」


傍らから凛とした声が振る。ちらりと視線をやれば、薄く笑んで遥か前方にある案山子のように組まれた枝の的を見つめる名前がいた。

傲慢高飛車でクセのある滝夜叉丸が唯一大人しく言うことをきく数少ない相手である彼女は、傲慢高飛車でクセのあるこの後輩がなぜ自分に従順であるか理由を知らない。だが、滝夜叉丸の四年生ながら豊富な知識や技術などは丸々認めていた。頼まれればこうして特訓を見てやることもある。頼まれずとも普段から纏わりつかれているのだがそれはあまり考えないようにしている。


「いきます」


滝夜叉丸が息を吐いて振りかぶる。鋭利な弧を描き飛んだ先の結果は知れている。既に何本も何本も戦輪が突き刺さっている案山子、その隙間を縫うかの如く見事に新しい刃が収まった。名前は思わず手を打った。


「百発百中だな!」
「朝飯前です」
「戦輪に関してはお前に適う気がしないよ」
「ご冗談を、先輩は千発投げても外さないでしょう」
「それ人間じゃないだろ」


軽口を叩きながら新たに戦輪を取り出しながら滝夜叉丸は名前の小さな異変に気づいた。ほんの一瞬、腕の関節に手をやって眉を顰めたのだ。首を傾げる。


「名前先輩、どこか悪くされたのですか」
「えっ?いや、大丈夫だよ」


ひらひら手を振られるも疑念は晴れない。じっと見つめるとあからさまに目を逸らされる。自ら公言するように滝夜叉丸は賢いので、今日は早く切り上げようと即決した。一つ、戦輪を手にする。


「…これで仕舞いにします」
「いいのか」
「はい」
「日暮れまで付き合う約束だった筈だろう」


夏の空は高い。日暮れというならてっきり夕飯時も過ぎると思っていた名前は拍子抜ける。見上げてもまだ陽は落ちていなかった。影が焼けるような日差しだった。


「今になって用事を思い出したのです、すみません」
「別に構わないけど…」


きっちり腰を折って頭を下げられてはさすがの名前も言及はできない。彼女の手が今度は肩口を押さえているのを横目で見ながら滝夜叉丸は最後の一投を鮮やかに決めた。









「失礼します」
「どうぞー」


名前と別れ一通り片付けを終えた滝夜叉丸はそのまま医務室へ足を運んだ。これで一年坊主などに迎えられたら即退散するつもりでいたが、室内には保健委員長ただ一人が薬品棚の整理をしていた。都合が良い。しゃがんだり立ち上がったりと忙しない背に用件を告げる。


「ええと、関節が痛むのに効くものはありますか」
「具体的にどう痛むの?」
「あ、いや私ではないのです。名前先輩が…」
「名前?…ああ、なるほどね」


こちらに向き直ると正座する伊作。彼も六年生にしては後輩に礼儀正しい人物である。


「なるほど、とは」
「今に始まったことじゃないんだ。言わば成長痛だよ」
「成長痛?」


つい出た素っ頓狂な声に対しても大らかに返される。


「そう。小さい頃に経験しなかったかい?成長期で骨が伸びると筋肉が引っ張られて痛んだり、関節に違和感が出たりする」
「名前先輩が成長痛…」
「うん、まあ彼女の場合よくあることなんだけど。でもあまり突っ込まないであげてくれる?」
「なぜです」
「気にしてるみたいだから」


伊作の助言を受けて滝夜叉丸は閉口する。あんなにも魅力的な先輩に気がかりな悩みがあるとは想像もしなかったのだ。成長痛とはつまり体が大きくなるわけだが…

確かに名前先輩は長身ですが、と呟いた滝夜叉丸に伊作は頷く。


「そこまで気にかけたことはありませんでした」
「ね、周りは気にしてないのにね。女の子っていうには逞しすぎるかもしれないけど、やっぱりあの身長はコンプレックスみたい」


仙蔵や小平太なんかがからかうのだと言う。滝夜叉丸は憤慨しそうになる寸前でその心を静めた。仙蔵はともかく小平太といったら彼の畏怖すべき体育委員長様なのだ。話題に上げたら間もなく本人が登場する。嫌だと思おうものなら裏々山まで強制ランニングさせられるに違いない。考えただけで血の気が退く滝夜叉丸は青い顔で伊作の言葉を聞いている。眉尻を下げた彼は滝夜叉丸の気持ちを汲もうと決めた。


「ほっといても治まるものだけど、気休めに湿布ぐらいはいいかもね」
「ください!」


つい身を乗り出すと、伊作は微笑んで快諾した。今度は赤面している彼をからかう心などこの優しい保健委員長は持ち合わせていない。しまったばかりの湿布を数枚取り出し手渡すと、滝夜叉丸はありがとうございますと真っ直ぐに礼を言う。名前が絡むとこうも変わるものなのか、と伊作がこっそり関心していることを彼は知る由もない。

医務室を後にすると、急いた気持ちを道連れに滝夜叉丸はくのたま長屋へ向かって走り出した。大事に湿布を握りしめ、名前に伝えたいことを頭の中で反芻しながら駆けていく。











「ということがあってだな」
「しかし食事前に貼るのは愚行だな。薬臭くて適わん」
「悪かったよ」


あらゆる関節に湿布を貼り付けた名前は向かい合わせで夕飯をとる仙蔵につい先刻の滝夜叉丸の行動について話していた。少し顔を歪めただけで心配した挙げ句わざわざ医務室へ赴きもらった湿布まで届けてくれた後輩、こうしてみれば美談だが相手に違和感がある。箸で魚をほぐしながら仙蔵は息をついた。


「あの滝夜叉丸がな…お前よっぽどいい躾を施したのか」
「なんだよそれ。一方的に懐かれてるだけだ」
「鈍いな」
「は?」
「見返りもなしに動く奴にはみえないが、意外だ」
「ふふ、告白もされたぞ」
「ほう」




『先輩が大きかろうと小さかろうと私は構わないのです』
『私はありのままの先輩を素晴らしいと感じ、眩く思い、心より尊敬しているのですから』




「…だって。伊作あたりがなんか余計なこと言ったかね」
「驚くほどに可愛げがあるじゃないか、実は鉢屋だったりしないのかそれは」
「やめてくれよ。…お返しに戦輪の一つでも贈ってやろうかな」
「それがいい、ますます離れられなくなるだろうよ」
「あいつ戦輪ばっかだもんなあ、今日も練習見てやったけど相当だよ、あと……」


(お前から離れないという意味だ)

なにやら勘違ったまま話し続ける名前を尻目に仙蔵は味噌汁をすする。何を口にしても薬臭さが鼻をつくが当人がやたら嬉しそうなので今回ばかりは放っておくことにする。