「な、」


綾部が土くれの顔で不意に薄く微笑んだものだから、名前はつい見惚れてしまう。それはほんの一瞬、生じた隙だった。急に強い力が掛かったと思うと息吐く間もなく名前の体は穴の中へと引きずり込まれていく。深さがあったので落下中に器用に前回転して受け身を取るが、決して広くもないので結果として綾部の上へ被さってしまう。落下したのだと判断したときは既に狭い地中で、顔を突き合わせる形となった。


「どういうつもりだ」
「どうもつもりもありませんが」
「今あからさまに引っ張ったろうに」
「先輩と二人きりになりたくて」
「それが狙いか」


よいしょ、と悪びれもなく綾部は名前に跨がる。


「…穴の中に害がいるとは、さすが綾部」
「安心してください、この中には誰も入らせませんから」
「いや違くてさ」


悪い奴では決してないのだが会話がしにくいな、と改めて名前は思った。淡々とやりとりするも話はあっという間に綻ぶ。屁理屈とはまた違う。綾部は独特なペースを手放さない。

しかしどう説いたところで場所が場所だ。狭っくるしいので尻の座りが悪く、ただでさえ大きめな身体なので脚を折り曲げて非常に窮屈な体勢になっている。そのうえ綾部が跨がっているのだから堪らない。開ききっぱなしの口。茶色い顔。


「あー、土まみれ…」
「むぁっ」
「せっかく可愛い顔なんだから」


指で強く頬を拭ってやると綾部は妙な声を出した。しばらくもごもご言っていたが、顔を隠すように名前の胸元へ押し付けてきた。名前は両手にやり場もなく、結果として抱き合うような形となる。


「(こんな穴の中で何やってんだか…)」
「先輩」
「なんだ」
「好きです」


何を言い出すんだ、唐突に。


「はいはい、私も好きだよ」
「…それは違う気がします」
「お前達の言う好きはね、そういうことなんだよ」


頭を撫でてやると大人しくなった。綾部は滝や三木なんかと一緒にしないで欲しいとぼやいたが、小さな声だったので名前は聞こえない振りをした。地中は土の香のみ漂わし、狭い壁は圧迫感がある。地上は遠い。
孤独を望むならこんな穴を掘るだろうな、と名前は思う。
綾部は耳馴染みの良い声が邪魔されることなく自分のみに向いていることを嬉しく感じる反面、背筋に薄ら寒さを見つけた。当てられた名前の手ばかりが熱い。綾部の得意とする交わし技も万人に通用するごまかしも、今だけはきかないのだ。そんな人だから好きになったのだけれど。
顔を上げると暗い空が飛び込んだ。名前は平素と変わらぬ穏やかな眼差しで綾部を見ている。いつも通り。違うのは環境ばかり。

(本当は、出られなくなったわけじゃなくて)
(あなたが見つけてくれるまでずっとここにいるつもりだった)

穴の理由は本人でさえ不透明なものだったが。


「…全て先輩のおっしゃる通りで」
「何を飄々と。いい加減出るぞ」
「あたっ」


一つ軽いチョップをお見舞いすると綾部を退けて名前はやっとこ立ち上がる。しかし、穴は深い。長身の彼女が手を伸ばしてぎりぎり際の地を掴むぐらいで、そんな体勢では到底上がる力など入らず土を握りしめるばかりである。


「…綾部、縄はあるか」
「あります」
「ならば私を伝って先に出てくれ」
「え」
「後から近くの木に縛った縄を下ろしてくれればいい」


否応なしに名前は綾部の腰を抱えて持ち上げた。腕力どうこうよりもまず子ども扱いされているようで綾部は不満だったが、今回一方的に巻き込んだ身としては何も文句は言えまい。立ち上がった名前の肩を踏みつけて地上へ這い出ると、おとなしく指示通りに動いた。