ずびび、と鼻水をすする音が響いた。
閑静な室内は、机上のお見舞い蜜柑を剥いている私と、布団から上体を起こしながらも寒いのか背を丸めてぼんやり私の動作を見つめる仙蔵の二人きりである。

手は休めずちらりと横目で彼の様子を窺うと、再度、鼻音。

いくら風邪とはいえ情けないこの光景を立花仙蔵ファンが見たら一体どう思うのか。否、その疑問はすぐに解決する。失笑どころか全員こぞって看病に押し掛けるに違いなかった。なんかこう、母性本能とかいうやつだ、昔習った気がする。私にはそんなものはないけれど。

いい加減手が蜜柑臭くなってきた頃、仙蔵がしんどそうに口を開いたので一発くしゃみでもかまされるかと思い身構えると、おい、と声をかけられた。くしゃみじゃなかった。


「蜜柑はまだか」
「…あんた人を呼びつけておいて随分偉そうね」
「病人に対して尽すのは当然だろう」
「この間私が倒れた時は見舞わなかったくせに」
「………お前が寝ている時、枕元にずっと立っていたぞ」
「さよけえ」


幽霊かあんたは。
普段に比べて些か支離滅裂なのは風邪のせいだろう。仕方のないことだ。

そうこうしてる内に蜜柑を剥き終える。向き直る。そうして差し出しされた丸裸の蜜柑はきちんと筋まで除去されているにも関わらず中々受け取られなかったので私はムッとした。


「ちょっと立花さん人に剥かせておいてそりゃないんじゃないの」


明らかに不快だという感じを全開に棘々しく言うと返事の前に一発くしゃみをかまされた。ここでするのか、ちょっと面白いじゃないか、本当に大丈夫か立花仙蔵。

ひとしきりずびずびした後、またもや偉そうに言う。


「寒くて手が出せない。食えない」
「ガ、ガキか」
「何のためにお前を呼んだと思ってるんだ」


食わせろ。

とは言わないまでも彼は口を開けた。
こうなると何を言ってもきかない。仕方なしに蜜柑を持ったまま彼の隣へ這って移動して、実を摘みぽっかり開いた口へ近付ける。

指まで食われそうなぎりぎりの位置で蜜柑は消えた。黙って口を動かしている。病的な肌色の中、伏せた目元だけ少し赤くて色っぽかった。彼といて、こういう仕草を見つけた時、心の底から女だったら良かったのにといつも思う。

やがて口内のものを飲み込んだ仙蔵はまたもや蜜柑をねだった。
よりによって私の苦手な上目使いのみで訴え、不覚にも胸だか腹だか微妙な位置が息苦しい様な感じを覚える。これが母性というやつだろうか?私にもあったのだ。衝撃の事実だった。

実を摘んだままぼうっとしている私に苛立ったのか、ぐいと手首を掴むと指ごと啌えたので驚いた。


「ちょ、な、なにやって」
「遅い」


目を白黒させていると舌を這わせて指を舐めあげ、離す際に唾液が糸をひく。
どうしたんだ立花くんいやらしいじゃないか!
そうツッコミを入れるつもりがすぐに口を塞がれてしまい叶わなかった。
ていうか手ぇ使えてるじゃないか。詐偽だ。


長い口付けのあとで


「蜜柑でなくとも食うものはある」


そう囁くと、とうとうヤキが回ったのか虚ろ故に艶めかしく笑った。
直感的危機に体を引けば机にぶち当たってごろごろと橙色が転がり落ちる。それを眺めながら彼は一体何を食べる気なのか、愚問かどうかの判断をつける間もなく痛んだ体はすぐに布団へ引きずり込まれた。