初恋は叶わぬ、と書物で読んだり人に聞いたりしたが、全部が全部そうではない筈だと思っていた。未知なる所業は自身で経験しなければ納得が出来ない方であった。思うに昔から頭が固かった、仙蔵の嘲笑う通り。
確かなる根拠など見当たらぬくせにやたら自信ばかりあった。しかし、どうしようもないことに呆気なく打ちのめされた。





あの日は見計らったかのように桜木が満開だった。真っ直ぐで太い幹に先輩は体を預け、誰よりも早く算盤を弾く器用な指先で、何かをくるくると回している。卒業証書だ。睨み付けていたら、文次郎も卒業するときには貰えるよ、と斜め向きな答えをもらったが別にそれが欲しいわけではない。忌ま忌ましいのだ。非常に。俺がそれを貰うにはあと三年ここで過ごさなければならない。

そう簡単には埋まらぬ差。先輩は笑う。少ない会話の延長線上で一思いに告げた俺の気持ちに、ありがとうなどと言う。


「君がさ、卒業してこの先一人前になってそれでも気持ちが変わらなかったら、」
「………」
「また言ってくれる?」


これは解りにくいが遠回しに断られている。そう理解したとき、それ以上何が言える筈もなく黙って頷くと、先輩は胸元に卒業証書をしまい込んで真っ直ぐ俺を見た。


「その頃には私もちゃんとやりたいように仕事してるかな」
「先輩」
「恋人出来てたりして」
「ずっと」
「うん」
「…好きでした」


しばらく俯いていたら額に柔らかな唇が当てられた。顔を上げてだらし無く口を開閉させている俺に対し、先輩は目を細めて笑う。また、ありがとうなどと言う。

ずっと好きでいたけれど、委員会などの日常で接する中で、先輩は俺を少しでも気にかけてくれたのだろうか。卒業という形で日常を手放すことを、六年に及ぶ学園生活を心の奥で懐かしんでいるのだろうか。再び出会うとき、俺の気持ちは変わらずにいるのだろうか。先輩の気持ちは。

再度想いを告げるにしても、それがいつになるのか、ましてやそのとき果たして互いに無事なのか、不透明な世界に俺と先輩は踏み込んでいる。


「頑張ってね、文次郎」


立場違いな激励の言葉をもらっただけで、結局最後まで別れの言葉は交わされなかった。
鮮やかに像を残して先輩は去る。吹雪というよりも雨のような桜が散り散り、一人取り残された。





実際どうなのかは知れぬ。しかし俺の初恋は叶わなかったのだと思うと、いつか書物で見た横柄な表記が記憶に蘇り、やるせなくて無性に泣けた。