一寸開いた襖の隙間から陽が差していた。外には、人の殺し方を覚えたあの日と同じ春が降っているのだろう。この季節になると、なんとなく歳を取った気になる。とはいえ自分が産まれた日、ましてや確かな年齢さえよく知らない。私はまだ幼く手足も何もかも細かった頃、今背を向け胡座を掻いている男に拾われたのだった。

私には幼少期に人と接した記憶が欠落している。家族とかそういったものもわからない。思い返すとこの男…組頭に会うまでどうやって生きていたのか実に不思議である。それを言えば何故組頭が私などを拾う心になったかという点も不思議であったが、記憶がなくろくに喋れない私に言葉と文字を教え、箸の持ち方と物の食べ方を教え、生活の全てに加えて人の殺し方までも教えたのは紛れもなくこの男なのだ。それだけはよく覚えている。

同じ春の日を思い出す。何の躊躇も、疑問さえもなかった。組頭に生の全てを享受された私にとって人殺しなど言葉を喋ることと同列で、箸の持ち方を覚えるよりも簡単なことだった。冷たい刀で首を深く刺せば絶叫より早く血の柱が上り、眼はぐるりと回転して色を失くす。ただの、そういう事象だった。辺りが汚れるだけの、それだけのこと。上手だと言われて頭を撫でて貰えるならば生臭い空気など幾らでも吸えた。


不意に名を呼ばれた。返事をする前に組頭は少し振り返った。死角の左側。この男ときたら右目と首筋、手、下半身の一部以外を除いた全てが包帯に侵食されていて気味が悪いのだが、生憎私は昔からそんな姿を見続けていたので今更気に留めることもなかった。しかし出会った当初からこんなにも包帯だらけだったかは定かでない。時を経る毎に増えている気はした。


「名前」
「え?」
「お前な」


私は真新しい包帯を握り締めている。溜息を吐いた組頭は上着を脱いだ。そうだ、包帯を交換するのだった。すみませんと気の抜けた声で詫びながら、組頭の胴体を覆っている一日ともたない包帯に手を掛け引っ張った。顔や足は自分で巻くのに胴体だけは私に手伝わせる。昔に、自分は不器用なのだ、と笑った口元さえ今では包帯の沈下。

私にとって組頭は父であり兄であった。家族がいないのでよくわからないが、他の仲間とは違う、組頭にだけ持ち得る特別な感情は、家族というものに対するそれに近い。上司に抱く畏敬の念よりも身近で軽い愛執は非常に心地がよかった。


「春か」


胴体を滑りするする解けていく包帯。生々しい傷のような、既に治っているものもあればいつの間に付いたのか見慣れぬ傷もある。この男はもしかして、人知れず再生と破壊を皮膚下に繰り返しているのではないだろうか。時期に連れて花が散り葉が落ち枝に移りまた蕾がなるのと同じように。そんなことが出来る人間がいるかは知らないが。


(私というものの全ては彼に寄って構成されている)


春になると思い出すな、と組頭が言う。


「お前が人を殺めた日」
「………」
「嫌の一つも言わずになぁ」
「…言ったら何か変わったんですか?」


首を横に振る。歳もよくわからぬ、烏の濡れ羽に似た右眼。


「ただお前は従順が過ぎると思って」
「噛み付かれるよりはいいじゃないですか」
「確かにな」


従順なのは至極当然のことだ。他に頼る者がいない為である。この男に出会っていなかったらと思うと今でもゾッとする。無知で弱い私に全てを教えてくれた、やっと目的というものが掴めた、組頭に会って初めて生というものに実感が湧いたのだ。

たまに夢に見て背を凍らす。冬、孤独に死んでいく有様、男の影はない。


「名前、もういい」


組頭はきっちり巻かれた包帯に満足そうだった。


「雑渡様」
「その呼び方は好きじゃない」
「おかしら」
「そうだ」


距離が詰まっている。否、こちらから詰めたといったほうが正しい。困惑するでもない組頭の、唯一の右目を了解も得ずにべろりと舌先で舐めあげる。瞼が固く閉じられた隙に若干細い首筋へ唇を押し当てた。知らぬ間の、火薬の匂い。離れたら頬に手を当てられ、されるがままに上を向けば包帯越しに唇が重なった。眼で訴えると組頭は自ら口許を捩開けて隙間を作り、現れた口内を私はすかさず貪った。だらし無い水音、かさついた組頭の唇が湿ってきた頃、混ざり合った唾液が端から零れて顎へ伝っていった。見境がなくなり没頭しているといつの間にか組頭は畳に倒れていて、私は包帯の感触に恍惚しながら上に乗っかっていた。絶え絶えの呼吸。絶命する瞬間によく似ていた。


「どうかしたのか」
「別に、……なんか当たってるんですが」
「これで勃たなかったら不感症だろう」
「それは、まぁ…」


垂れた私の髪が組頭の顔の横に流れた。少し塩辛かった右目が見ている。私だけを見ている、組頭、貴方しか。貴方しかいないのです昔も今もこの先も。父であり兄であり、まだ言い得ぬ感情の遥か先にいる貴方。人を殺めて頭から血を浴びた瞬間から理解していた。いずれ、互いが必要になるという事実。そして。


「お前が愛しい」


あの日と同じ暖かな季節に感じる絶望の淵。捕らえたと貴方は笑うが私は足掻く気など毛頭ない。果てなき想いを知っているのか、春。