起立・着席・礼を流れ作業でこなしてから一日よく頑張ったなぁと伸びをしながら廊下に出ると、突き当たりの音楽室へ吸い込まれていく人影が見えた。今日やるのかな、と思いながら足はぐんぐんそちらへ向かって突き進む。ごついドアを開けると柔らかな音を耳が呑み込んでいった。

真面目で寡黙な伊賀崎孫兵がピアノを弾けるという事実を知る人間は少ないと思う。人前じゃ滅多に弾かない。私はなんとなく現場を目撃し、ピアノが弾ける(しかもかなり上手い)男子なんて初めて見た感動から、やはりなんとなく彼の気まぐれに行われる演奏風景を鑑賞するのが密かな楽しみとなった。


両手の指で足りる程しか聴いたことはないが、少なからずわかったこともある。クラシックを主として俗な物は弾かないようだということ、譜面台は必ず空席のままだということ。楽譜を見ずによく弾けるものだと感心する。的確に鍵盤へと下る指先。強弱の波。今日はまた前と違った曲で、優しいメロディーに聴き覚えはある、しかし思い出せない。いつも背後に佇むだけのクラスメートなど彼はまるで気にせず、黙ったままなのも若干後ろめたいので、控えめに話しかけた。


「この曲さ…」
「シューベルト」


意志を組み取ったのか、ぽつりと返される。あぁ、シューベルトね…納得しながら机の上に座った。今なら注意する教師もおらず、代わりに美しい旋律。でも曲名がわからない。彼が言う。


「この前テストに出たね、シューベルトの…」
「曲名ひとつ答えろってやつ。私は魔王って書いた、けど」
「僕はこれにしたよ」
「これなに?」
「野ばら」


防音の壁で分厚く区切られた室内は窓も無い。陽が見えないと時間がわかりにくいなぁと思っていると、詩は同じゲーテでも魔王と野ばらは随分と違うでしょ、と説明された。返事をする前に曲が終わってしまったので、礼代わりの拍手をすると彼は椅子から立ち上がりくるりと振り返った。つられて私も床へ降り立つ。


「苗字さんは僕が弾いているときいつもいるね」
「ばれていたか」
「ピアノ、好き?」
「…そんなに弾けないけど、聴くのは好き」
「教えようか」
「えっ」


なんて言われたのかよくわからない内に手招きをされ、成り行きでまだ温かい椅子に座ってしまった。すぐ隣に彼がいる。なんだか緊張してきた。


「この曲、本当は歌曲なんだ。伴奏だけなら簡単だからすぐ弾けるよ」
「歌曲って…」
「僕が歌う」
「えええ」
「不満?それとも苗字さんが歌う?」
「いやいや滅相もない。不満じゃなくて、プレッシャーっていうか…」


ぐずぐず言っている私を見過ごし、1オクターブ高い場所で彼が手本をする。どうしようもないので導かれるまま押さえると不格好なりに音が出た。冷たい鍵盤。簡単とはいうが指が動かない。がつがつと爪が弾いていて正直、聴くに堪えない私の出す音。


「また違ってるよ」
「…案外スパルタですね、伊賀崎先生」
「出来の悪い生徒を持ってしまったなぁ」
「なんだと!」


こんな冗談を言う人だったのか。普段全く話さないので知らなかった。男子だというのに笑うとふわりといい匂いがする。それをうっかり嗅ぎ付けた私が弾き間違うと、またオクターブの高い音達が急かす。

単なる趣味であった鑑賞会にまさか参加することになろうとは。頬が熱く、いらない汗をかいたけれど何より楽しかった。
あっさり、伊賀崎孫兵との距離がぐんと縮まった美しき日和見。ぎこちないメロディーに乗せて口ずさまれる野ばらはもう二度と私の記憶からは離れないだろう。