貴方が執着していたのは僕の手首だった。
細い指で捉えて、じぃ、と眺める。薄い皮膚下には静脈が透けていて、それを指先でなぞってみたり、口づけたり。愛撫の類なるそれはどちらかといえば儀式のようにも思え、僕はただ黙って眉を寄せるばかりだった。不可解な行動に何と返せば適当であるか今だにわからない。


「君、三年生だっけ」
「そうです」
「幾つなの?」
「十と二」
「ふぅん」


貴方の口から覗いた赤い舌先は記憶にしっかりと焼き付いた。






「君に会えないと息苦しいな」


夜が一番落ち着いた。虫達も活発でせわしなく、引き換えに人による喧騒などは失われた。貴方が訪れる僅かな時間も夜に限られる。互いの指先が触れ合った。絡まることはなかった。

月明かりは優しくない。
よくよく目を凝らさないとそこにあるものが消えてしまいそうで。


「食堂だとか人前で会うのは、君、嫌でしょう?」


貴方は得意の引っ掻き癖を無意識に再発していた。首裏をぎりりと切り揃った爪先が往復している。雲が過ぎ去りその姿が現れて、僕は貴方の首や胸元に真っ赤な数多の線を認め、やめてくださいとお願いする。


「夜は好き?」
「昼は嫌いです」
「一緒一緒」


また暗くなる。そこにいるのは誰だ。


「こういうのは秘密裏だから楽しいんだよ」


明るいうちに会えたなら奇跡だね。

小さくこぼして影は去って行った。奇跡、貴方が言うならなんだって信じられる。在りもしない神様に懇願すらしてしまう。


陽射しが嫌いだった。夏などは特に生き辛い。じりじりと身を焼くあの熱を真っ向に受けたらいずれ蒸発してしまう。
木や葉の影を選び、明るい地面を避けて歩いた。その先の日だまりに貴方はいた。真白い手に招かれる。奇跡?僕は応えかねて踏み留まる。瞬間の後悔。嘲笑のような表情。ああ、じりじりと焼かれてしまう貴方は。似合わない汗など張り付かせて何処へ行くの。

僕から離れてひらりと貴方の後を追っていった色彩はもう戻ってこない。






「やあ」
「…この前」
「なに?」
「陽のあるときに会いましたよね…?」
「さあね」


会話の糸口すら掴むのを許してはくれない。誰も来ない裏庭の不揃いな岩肌に腰を下ろし、なにもかもをはぐらかした貴方は片方の手を上手く回して僕の肩を抱く。引き寄せられて、こうしていると睦まじい仲に見えそうなものだけれど実際は違う。通う情など貴方には微塵もない。僕は胸の奥が痛くても臆病だからそれを口に出せやしない。互いの名前すら情報として持ち得なかった。貴方は教えてくれない、なにひとつ。

何かがはためく音がする。
群れて飛び、記号を出して交わる虫たちのほうが余程人らしい。僕らより、そう。夢を見る?


「何も言わないで…」


こんなにも物悲しい、孤独が惹かれ合うのは摂理だろうか。触れた熱にはどうしようもない淋しさばかりが篭る。蝶の行方は知らない。無傷な首を少し傾いだ貴方が、掻きむしってしまったかもしれない。わからない。


「いつか頂戴ね」
「なにをです」
「君の手」


貴方の掌が僕の手首にぴたりと張り付いた。あいている片手をそっとその横へ近づけると、あの色彩によく似ていた。

そうやって、蝶が羽根を閉じるように静かに僕ら寄り添う。夢を見る。