「ため息多いなあ」
デスクの向こうから、柔らかい声が聞こえた。てっきり、残業は私だけかと思っていたから、思わず肩が跳ねる。
「…いつからいたの?」
「結構前だよ」
「ドア開けて入ってきた?」
「あはは、当たり前でしょ」
頭がぼんやりしたまま、私はディスプレイに並んだ文章と向き合っていた。泉の言葉が浮かんで消えて。手は、しばらく動いていないように思う。栄口は私の様子を察したのか、デスクの端に缶コーヒーを置いて、隣の椅子に深くもたれた。
「こんなに遅くまでお疲れさま」
「ありがと」
「高校のときから、頑張りすぎなんだよなあ」
「んー、でもこれは期限近いから」
「あ、俺いたら邪魔かな?」
「ううん、そんなことない」
むしろ、いてくれた方がいい。気が緩めば、またため息ばかりがこぼれてしまう。礼をして缶コーヒーを受けとる。
高校のとき栄口は知り合いだったから、社会に出ても、良くも悪くも新しい気持ちにはなりきれずにいた。栄口がいると、ほっとして自分でいられる気がする。私を受け入れてくれる。もちろん、彼の存在は、私だけでなく、会社全体の雰囲気を和やかにする。コーヒーの香りを、目一杯吸い込んだ。残業のときのちいさな幸せ。このまま溶けてなにも考えられなくなればいいのに。
「終わるまでここにいるよ。危ないから送ってく」
「いいよ、気遣わなくて」
「俺がしたいんだから、ね?」
断れないような笑顔に押されて、やむを得ずうなずくと、栄口は満足気に本を取り出した。ブックカバーのせいで、なんの本か推測は出来ない。
私はまたキーボードに手を落とす。ちかちかする画面に目を向けながら、指を叩きつける。もう少しで終わりそう。
と、思ったとき、栄口の影がゆっくり近づいてきた。反射的に身をよじって向き合う。なにか、始まる。予感がした。
「相変わらず泉のこと好きなの?」
心配してくれているようでもあり、少し呆れているようにも聞こえた。それはそうだ。もう何年になるんだろう。数えたくもない。私だって、相変わらずな自分に呆れている。
「うん…まあ」
「諦めないの?」
「よく分かんなくなってきた」
私は間違いなく泉が好きで、そばにいたくて。でも、友達でいつまでもいられる自信はない。隣で笑う力も、きっと限界がやってくる。そのとき、私はどうするんだろう。
「ねえ」
「ん?」
「叶わないって分かってるのは、どうやって諦めたらいいんだろうね」
「そうだね」
「でも、諦めきれないよね」
私は顔を伏せる。涙が溢れそうになるのを、堪え忍ぶ。その人を嫌いにもなれない。ずっといたいだけなのに、それは世の中のどんなことより難しいことのように思えた。こんなに、はっきりと固まった気持ちなのに。
「ごめん」
栄口の何かを押さえつけるような声と、同時に肩をきつく抱きしめられる。ただ息をしていることしか出来ない。
「もうお前見てるの辛いんだよ。…俺じゃだめ?」
肩がわずかに震えてる。泉しか知らなかった。いつも私が彼を見つけて、見ている。辛くて逃げ出したくなって、でも、そばにいたい。矛盾を抱えながら、泉を想ってる。もし、栄口も同じだとしたら。私は、背中にゆっくり腕を回した。触れているところが、やけに熱い。この人は、泉じゃないって分かってるけれど、突き放してしまうことは出来ない。
「ずるいね、私」
「ずるくなんてないよ」
ずるいのも、甘えなのも分かってるけど。でも、泉の代わりなんかじゃない。溶けていきたい、とさっき思ってたけれど、溶かされそう。
「あったかい」
「うん、春だからね」
もう少しだけ、栄口に近づきたい。知りたい。気がついたら背中を強く引き寄せていた。春がきたら、二人で溶けてしまいたいね。
(20120324)