「送っていい?」
「どーぞ」
「みんな来てくれますように」

送信ボタンを押す。電波でみんなの元にこのメールが届くんだなあ。いつだったか、私が携帯ってすごいよね、と興奮しながら話したときも、阿部は隣で何かを勉強していた。今日も資料を広げて、テストに向けて勉強中のようだ。机に阿部の携帯を置いて、その中で異彩を放つ分厚い本を開いて、私は隣に寝転んだ。


「どれどれ…最小二乗推定量は上記の仮定を満たす限り、線形かつ不偏な推定量の中でもっとも望ましい性質を持っている」
「お前意味分かってんの?」
「んなわけないじゃーん。全然分かんない!これ、どういう意味?」


経済学なんて、ちっとも分からない。そもそも、ガウスなんちゃらさんが言ったことなんて、少なくとも私の人生には関係がない。微分積分だって、テストを終えた瞬間に頭の奥に押し込めたっきり出てこない。勉強は、そんなのがいっぱいある。でも、阿部にとっては、大学生でいるうちだけじゃなく、この先この定理を思い出すときがくるんだろう。そのとき、私は隣にいれるのかな。


「だよな、俺も知らねえ」


そのとき、私が隣にいたら、今日のことを笑って話せたらいいなと思う。こんなことあったよね、って。そんなの、ずっとずっと先なのはわかってるけど。


ホームスチール



「そういえば、携帯古いよね?ボタン壊れそうだった」
「あー。そうかも」


高校のときから、ずっと、阿部はこの携帯を使っている。パカパカと折ったり広げたりを繰り返せば、ぎい、と変な音が鳴る。確か電池パックのカバーも外れやすい気がした。そういうのを見てみぬフリをするのは、良くないと思うけど、ねえ。修理くらいはした方がいいと思うんだ。今度、携帯ショップにでも連れて行こう。


「でも、阿部は偉いね」
「はあ?」
「物持ちがいいっていうか。私ならすぐ携帯替えちゃうなあ。」
「面倒だからいい」
「えー!機能いっぱい付いてるし、かっこいいのもあるんだよ?」
「そんなん要らねーよ。なまえと連絡とれれば別にいいし」。


阿部はそう言うと、また分厚い本と睨み合いを始めた。ずるいなあ、本当に。たった一言で、こんなにも舞い上がってしまう。心臓は、全然言うことを聞いてくれそうにもない。平気なふりをしてみても、私を見ておかしそうに眉を下げている様子を見て、きっと赤くなったのはバレてる。そう確信した。


「だ、誰から先に返事来るかな?」
「水谷あたりじゃね?暇そうだし」


暇かあ。確かに、水谷は暇そうかも(ごめん)。そのとき、水谷と反対側にいる人の顔が浮かんだ。


「田島は…忙しそうだなあ」


口に出してしまったことを後悔した。阿部の表情は読めないけれど、寝返りを打って背中を向ける。なんか嫌な空気だ。夕方の切ない匂いのする風が、部屋に入ってくる。柔らかさに悲しさをいっぱい詰め込んで、私の中に入り込んでくる。名前もたやすく呼んでいけないような気がしたら、私の心の中で、田島の存在が少しだけ濃くなった。しばらく沈黙が続いたあと、阿部はなんもなかったみたいに、返事を返した。気を遣ってくれたんだろうけど、そのままなかったことにして欲しかったなあ。


「かもな」
「…なんか、ごめん」
「そんなの気にすんなよ」


小学校のころ、必死になって消しゴムで字を消した。頑張れば頑張るほど、横に広がって余計消せなくなった。それはまるで、今の私のようだ。消そう消そうと思うほど、田島とのことが色濃く残って、消えない。


阿部の声はやさしいのに、ずきりと胸に刺さった。


20100916
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