帰ろう。いや、帰りたくない。でも帰らなくちゃ。そう考えている間にも、雨はどんどん強くなっていく。わずかな壁や柱の陰に隠れようとも、相手は台風。簡単に勝てるわけなんてない。傘と傘の隙間から水谷を見つけ出して、ほんとにちょっとだけ安心する。良かった、まだ帰っていない。そこで、私は大切なことを思い出した。電車は、動いたんだろうか。



ネットを開いて更新ボタンを押しても、電車の運行情報は変化がなく、運転見合わせの文字が並ぶ。携帯にぶら下げたくまのストラップが、寂しそうに笑う。パンプスも、ジーンズも雨を含んで重い。どんよりとした気持ちを引きずって、体も重くて、こんな日に私はなんでここにやってきたかを思い出そうとする。やっぱり、そこには水谷だけが見えていて、私の単純な脳を嘆いた。あれほど嫌いな雷より、水谷を選んだのだ。でも、今更何言ってもしょうがない。もう一度、画面を更新してみる。やっぱり変わるわけなんてなくて、ため息がこぼれた。心なしか息が白い。


「電車動かないねえ」


やけに穏やかな声に顔を上げたら、水谷が私の傘に入ってくるところだった。近づいてく距離に、少しだけ身構えてしまう。気づかれないよう、小さく息を吸い込んで吐き出す。近く感じるのは、傘で周りが見えなくなっているせいだ。そう理解できているのに、私の鼓動は言うことを聞いてはくれない。目が合ってしまったら、どうしようもない。いきなり熱が上がったように、頬が染まっていくのがわかる。それは嬉しくて、すこし苦しい。数センチ先の彼の襟足は、雫をまとい鮮やかに光っていて、綺麗。ふわふわの髪も、今はぺしゃんこだ。Tシャツは水分をいくらか含んで肩に張り付いている。透けて見える肌色に、ごくりと唾を飲み込んだ。なんだか、いけないものを見てしまった気分。水谷じゃないみたい。




「ね、帰んないの?」


顔を覗き込むように水谷が屈んだ拍子に、傘からしずくが落ちる。そのしずくの先には、大きな水たまり。いつの間にか柄を握っていた大きな手に、胸の奥の方が音をたてた。私たちと大きな赤い色傘は、その表面でゆらゆら揺れている。心臓の音に負けないくらい、雨がうるさい。傘のビニールをばちばち弾いてく音は、さっきより強くなった気がする。


「帰るよ。みんなも帰るんでしょ?」
「そうっぽいね」

帰るしかないけど、やっぱり寂しいな。もう少し、本当に少しだけでいいから、水谷と一緒にいたいのに。私の家は、ここから近くないし、しょうがないからタクシーかなあ。水谷は近いから、歩いて帰るんだろうか。こんなとき彼女だったら、何のためらいもなく一緒にいれるのに。雷も怖くないのに。でも残念ながら、私たちは、ただのおともだち。


「タクシー拾って帰るね」
「うん、じゃあ俺も行く」
「え!水谷も乗るの?」
「そうだよ。だって雨強くて歩きたくないもん。だめ?」
「いや、だめとかいうわけじゃないんだけど…」
「よし、じゃ行こっか」


せっかく、諦めた気持ちがまた溢れそうになる。でも、これは何だろう。水谷は私の手を掴んでいる。簡単に触らないでよ。私が堪えてきたものが、全部むだになってしまう。雷が暗い空を明るく染め上げる。すぐに、ゴロゴロと音が鳴り響く。近づいている。どうしようもなくて、その水谷の指先を握り返す。このまま、駅前に着かなきゃいいのになあ。ずっとずっと道が続いていて、2人だけの世界に行けたらいいのに。


現実は冷たくて、あっという間に駅前のタクシー乗り場に辿り着く。ドアが開いても、シートに座っても、水谷は私の手を握ったまま。ただ、家に帰るだけなのに、タクシーに乗ってるだけなのに、やけに熱い指先のせいで、すべてが特別で初めてのことみたいに感じる。進んでく道の先に待ってるのは、なあに。

「わ、かみなり……」

思わず握りしめてしまった指先を、すぐに離す。でも、また水谷の大きな手が包んでくれる。遠慮がちに握り返すと、やさしい温度が手のひらに溢れた。


「雷怖い?」
「うん、苦手」
「俺もやだー」
「そうなんだ」
「あの音がね、マジ無理!あ、すいません。そこ左でお願いします」


あ、きっともうすぐ水谷の家だ。ここから1人かと思うと、なんだか不安になる。シートの革の匂い、水谷の香水、繋いだままの温度。この思い出も雷みたいに、一瞬で消えてしまうの?こんなにどきどきしても、明日には元通り、いつもの私たちにならなきゃいけないの?



「みずた、に……」


半分届かなくていいやって思いながらも名前を呼ぶ。雨にかき消されるなら、それはそれでいい。少しだけ目をつぶった。ほんの一瞬。雷が光ったその瞬間に見えたのは、やさしく笑う水谷の瞳。


「1人にするつもりなんてないから」


大丈夫、と水谷が笑う。でも、それはいつもみたいなのとは違って、私より何歩も先を歩く大人の人みたいだった。知らない人のようだけど、私はこの指先を知っている。タクシーがたどり着く先は、きっと、私の知らない宇宙。恥ずかしくて、嬉しくて、泣きそうな呼吸だけが雨の中に響いていた。



20100905
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