そっと唇を離してマルコの顔を見ると、彼は照れたように視線をさまよわせた。初めて見る彼のそんなかわいい態度に俺の方が照れてしまいそうになったけれど、そんなマルコを愛おしいと思う気持ちが勝っていた。
真夏の太陽の下に躍り出た時みたいに、胸の奥がむっとする。気管にエレベーターがいるみたいだ。どんどんせり上がってきて、俺は唇を開いてそこで息をする。肺がトランポリンみたいに上下運動を繰り返し、肩は振り子のようにゆっくりと上下にリズムを刻む。緊張とは音楽だ、と俺は思った。

「どうして今、キスなんてする?」

俺は、わからない、その一言が言えなくてただ首を振った。ごめん、と紡いだはずの唇は見事に空回り、ただ発音をかたち取るに留まった。俺は途中で右腕で顔の中心を隠してしまったから、それがマルコに伝わったのかどうかもわからない。
なぜマルコがわざわざ外に連れ出したのか、その意図だってまったくわからないわけではない。言葉なんて必要ないと思っていた、しかし俺たちに圧倒的に不足していたのは話をすることだったのだ。おそらくマルコはそれをするためにわざわざ外を選んだのだろう。そうでなければ、別にマルコの家でもよかったわけだから。しかしそれでは、完全に言葉より体を重視する俺たちがちゃんとした話をする可能性はほとんどない。

「腹減ったろい。とにかく出よう、エース」

マルコの口調にはしっかりとした意志のようなものがあった。政治家の討論というより、学生のディベートに近い、倫理より感情を顕著に表した、青葉のような堅さがあった。



ピーク前のレストランは人々の会話より店のBGMが強く耳に残る。和麺店のように落ち着き払った三味線の音が響くわけでも、ファミリーレストランのように流行の有線が流れているわけでも、小洒落たレストランのように美しい音楽が流れているわけでもない。何か有名な曲のボーカルを抜いてスローにアレンジした音楽はきっとよく聴けば何の曲かわかるだろうけれど、俺にそんな余裕はない。
迷うことなく喫煙席を希望したマルコに笑顔を向けたホール店員がボードを確認し、いちばん奥の席へと誘導する。喫煙席はまだ俺たちだけらしい。通路から向かって左奥に進んだそこは完全に隔離されている。すこしの段差をのぼって障子を開くと、コの字型に広がったソファ席がある。ソファはよくある安っぽい固いビニール製で、しかしその座り心地の悪さはなぜか安心するのだった。
店員が水を持ってくると、マルコは勝手に日替わりをオーダーした。俺は食べられれば何でもいいやと思うくらいには空腹だったので、頬杖をついてマルコの指さしているメニューを見ようとした。しかしたった一言のオーダーはすぐに済み、メニューは持って行かれてしまう。

「日替わりって何だったんだ?」

「膳もの。メインは刺身」

「ふうん」

「茶碗蒸し付き」

「よっしゃ」

思わずガッツポーズをつくるとマルコは飲もうと持ち上げた水を慌ててテーブルに置いて、笑った。

「銀杏はおまえが食えよい」

「そんじゃあ俺は刺身についてる細い大根やるよ」

「いらねえ」

料理が来るまで、共に過ごした短い月日の間に知った互いの話をした。俺はマルコがフランス映画が苦手なこと、そのくせブリジット・バルドーが結構好きなこと、ウインナーにはケチャップとマヨネーズを混ぜたものを添えること、目玉焼きをつくるのが苦手なこと、そんなことを言った。マルコは俺が意外に映画に広いこと、ファッションの趣味、パステルのプリンよりプッチンプリンが好きなこと、モナカアイスは絶対にパリパリの板チョコ入りを選ぶこと、調味料の類は最低限しか使わないこと、グレース・ケリーみたいなタイプが好きなこと、そんな話をした。
いつもは料理が来るまでに煙草を4、5本は潰すけれど、話に夢中になりすぎて、灰皿には2本しか吸い殻が入らなかった。マルコのセッタと俺のラッキーストライク。マルコは案外煙草にこだわらなくてしょっちゅう銘柄を変えたけれど、セッタを吸っていることが比較的多かった。俺はときどき気分でマルボロとラッキーストライクを行ったり来たりした。

不思議な空気が流れている。海に遊びに行って迎えた朝の、ロッジの朝食をとっているような空気。実際は朝食ではないし、洋食でもないし、ここは海からずいぶんと離れた住宅街だというのに。
食事が来てもしばらくは話を続けていたが、だんだんと食べることに夢中になって話が途切れがちになる。ふと気付いた時には互いに無言だった。

「ぎんなん」

と俺は言った。マルコは急に何だと顔を上げたが、すぐに理解してスプーンでぐるぐると茶碗蒸しをかき混ぜてぎんなんを探した。

「当たりだ、エース。ふたつ入ってるよい」

「ラッキー」

マルコはひとつをぽんと投げるみたいに俺の椀に入れた。そのままふたつめを待つが一向に飛んでくる気配がない。肘をついてスプーンを差し出したマルコは目が合うとイタリア人みたいにひょいと片眉を上げた。
俺はマルコから目を離さないようにして、すっと背筋を伸ばし、そこに顔を寄せた。スプーンにかぶりつく。マルコは安心したように小さく微笑んだ。それはどこか哀しげだった。

「おまえは、俺の辛さなんて考えたことはねえだろい」

「遊びだと思ってた」

「そう思われなきゃ俺が惨めだ」

これだけでも惨めだってのに、とマルコは目尻の皺を指で伸ばした。その顔がおかしくて笑うと、笑い事じゃないとスプーンで鼻の頭を叩かれる。

「全部ばれちまったからはっきり言うよい。俺はもう一度おまえを抱いたらきっと離せねえ。嫉妬もするし、べたべたする」

「はははっ。べたべたって…あんた、歳考えろ」

「うるせえよい。おまえのバイクを見ただけで、気が急いて仕方がなかった。顔見ちまったら、もう」

そこでマルコは言葉を切って、スプーンを持ったまま片手で顔を覆った。情けねえ、と小さくつぶやいたその声は聞こえなかったふりをする。

「まだ、俺を好きでいてくれたんだな」

「言わせるな」

マルコは寝起きみたいにぼんやりとした瞳で料理を見つめたあと、唇を煙草を吸うときみたいにすぼめて、長く息を吐いた。茶碗蒸しを一口だけ食べてスプーンを置くと、水を飲んだ。

「おまえはこの先どうしたい、なんて、聞くのは酷か?」

俺にとって酷なのか、マルコにとって酷なのか。きっと俺にとっても酷だし、その答えを聞くマルコにとっても酷なことかもしれない。
あんなに混乱していたのに、答えなんてひとつしかなかった。どんなにぐるぐる回っても、結局終着点はひとつなのだ。それがどこだとは言わない。しかし人は必ずどこかにはたどり着く。休まずに歩き続けられる人間なんていないのだ。

「やっぱり俺はあんたが好きだ。マルコ」

マルコは顔を上げずに食事を続けたが、一瞬その箸がリズムを崩したのを俺は見逃さない。それを隠すようにターゲットをマグロからサーモンに移したのも、俺は目ざとく気付いている。

「でも、わかるだろ。ちょっとだけ時間が欲しいんだ」

「長くは、待てねえぞ」

「待てるさ、あんたなら」

俺が笑うとマルコは悔しそうに舌打ちをした。これくらいの報復は許してほしい。彼に捨てられたあの日の俺は彼より遙かに惨めな姿をあちこちに晒したのだから。主だってはローとサッチにだけれど。
好きだ、マルコ。
唇だけを動かして言う。こちらを見ていないマルコは気付かない。俺は満足してまた小さく笑った。
時間なんて、ほんのちょっとだけでいい。きっと俺は数時間後には、彼の腕の中にいるだろう。



アグリアスの羽音







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