足音が聞こえる。俺の体はびくんと跳ねる。しかしそれがハイヒールの音だとすぐに気付いたので、俺は大きく息を吐いた。予想通り、開けられた扉の音はここのものではなく、反対側にある女性用トイレのものだった。
ローの視線が痛い。

「いつまで便所占領してる気だ?そろそろ本当にそこを必要としている人が来るぞ」

俺は額を掻いた。動かなければならないことは俺だって重々承知しているのだけど、絶対にマルコに捕まるという確信があった。
俺は鏡越しに、ローにちらりと視線を送る。ローは片眉を上げて、首を出入口の方へ傾けた。出て行け、と示すみたいに。

「どんな顔して、会えばいい」

「さあな。そんな顔かな」

「それってどんな顔?」

「捕り物に失敗したエリオット・ネスのようなかお」

俺は思わず笑ってしまった。ローはなぜ笑うのかわからないな、というように肩をすくめたが、口元には微かな笑みが浮かんでいる。

「ハンサムだ」

「それに堂々としてる」

組んでいた右腕を立てて手のひらを上空に向けるローのジェスチャーに、ああそうだ彼はウエスタンだけではなくマフィア物も好きなのだった、変に突っ込むと長くなる、と判断した俺は、スポーツ映画みたいに大げさに両膝を叩いてゆっくり立ち上がった。

「行くのか。がんばれよ」

「おー」

すれ違いざまに拳をごつんとかち当てて、ドアノブに手をかけ扉を押せば、すぐに隙間から伸びてきた手にノブを握った手首を捕まれた。

「ちなみにトリマーのおっさんはそこにいる」

「ロー!てめえ早く言えよ!」

俺の手首を掴む手はどう見てもマルコのものだった。しかしそれはただ俺を逃がすまいと掴んでいるだけで、引き寄せるような素振りはない。俺は胃が重くなるほどの罪悪感を抱き、ごくんと唾を飲み込んだ。俺を捕まえている彼の手は、縋っているようにも見えた。
彼はまだ、俺のことを愛してくれているのだろうか。泣きそうになった。彼の手が、ただ手首を掴んでいるだけなのに、そうだと言っていたからだ。

「マルコ、だめだ。手、離せ」

俺の声は情けなく空気を震わせた。空気を震わせる前から、きっとそれを紡いだ俺の唇が震えていた。

「俺たぶん今あんたの顔見たら、泣いちまう」

マルコは何も言わなかった。しかし戸惑うみたいに、掴む手の力がちょっぴり緩む。離してくれそうだ、と肩の力を抜くと、その肩を思い切り後ろから突き飛ばされた。
驚いたように勢いよく腕を離されたせいで、俺の体は突かれた力に耐えきれず情けなくドアの外に転がった。

「俺を便所に閉じこめる気か?お前らと違って仕事中なんだよ」

「痛えな、ロー!マルコも離すんじゃねえ!あんたが離さなければ踏ん張れたのに!」

勢いよく振り向いて、見上げれば、笑っているローと肩のあたりでいまだ腕をさまよわせているマルコがいた。

「言ってることがめちゃくちゃだなエース。さっきは離せって言ってたくせに」

「うるせえな!」

悠々と俺とマルコの間を通過していくローに向かって足を伸ばしたが、ローは腹が立つくらいに余裕の表情でこちらを見もせず片足でひょいと避けた。仕事へ戻っていくローの後ろ姿から視線を逸らす勇気が出ない。視界の端にじっと俺を見るマルコが映り込んでいるからだ。少しでも視線をさまよわせようものなら、その視線に捕まってしまうことは明白だった。

「エース。とりあえず、戻れ。風邪ひくよい」

「…あんたもな。頭、ぺっちゃんこだぜ」

マルコは困ったように笑った。きっと俺も同じような顔をしていた。






マルコの仕事は服が汚れるので、ロッカーにはいくつかの着替えが置いてあった。俺はハンガーにかかっていた無地の黒いTシャツを借りて頭からかぶる。マルコはグレーのTシャツに着替えていた。
雷は静かになり雨も勢いを失ったが、しかしまだ小粒の雨が降り続けている。ざあざあうるさかったはずの雨は逆に世界をしんとさせた。時々雨受けから大粒の水滴がしたたる音がする。屋根でぴょんぴょんカラスがステップを踏む足音に似ていた。

「腹が減ったな。食いに行くか」

「え?」

「こんな格好だから、そのへんの近場でな」

素直に店に戻った俺に着替えはそこだ、と言ったきり何も言わなかったマルコはそう言って、振り向きもせずポケットに財布を突っ込んで車のキーを握った。俺はついていくことしかできないので、仕方なく後を追う。俺が意固地になってここに残ったらマルコが戸締まりできないし、何より俺もやはり空腹だったのだ。
気持ちもだいぶ落ち着いていた。ローのやり方は乱暴だけれど確実に俺の心を軽くする。マルコもそれをわかっていて、ずっと通路で待っていたんじゃないだろうか。

マルコは車に乗り込むと、俺がシートベルトを締めたのを横目で確認してエンジンをかけた。マルコの車は外見はさほど大きくないのにシートの足元がゆったりしていて俺は好きだった。
マルコはラジオがあまり好きではなかったから、いつも音楽をかけていた。持ち込んでいるCDはだいたい5枚前後、彼の家にはたくさんのCDがあるけれど根がずぼらなせいか車に置くCDの顔ぶれはそうそう変わることがなかった。今日はグレン・ミラーが流れている。
車でもマルコは一言も発しなかったが、赤信号で停止すると一瞬こちらに伺うような視線を寄越したのに俺は気がついた。

どうしたら伝わるだろうと、俺は窓に打ち付ける雨粒がだんだん細くなっていくのを、あまり通ったことのない道の景色を、歩道を歩く人々の傘の色を眺めながら、ずっとそればかり考えた。
俺がマルコに伝えていたのは好意ばかりで、愛ではなかった。マルコはその逆のものを俺にくれた。俺は無知なあまり彼を傷つけていたのだ。謝るべきか、それよりも伝えるべきか。どちらにせよ俺にうまく言葉にすることができるのだろうか。堂々巡り。車酔いしそうだ。
車は速度を落とし、ウインカーを出した。俺は視線を上げて看板を眺める。かんたんなチェーン店。和食屋で、ほとんどのテーブルが個室になっているここにはバイト時代何度かサッチとマルコに連れてきてもらったことがある。
車が停止し、マルコがエンジンを切るとこちらを見た。俺はずっとマルコを見ていたのでばっちり目が合ってしまった。

「髪も乾いたな」

穏やかな顔で俺の髪を撫でるマルコに、俺はとても自然にキスをしていた。





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