「怖いわ」

隣に立つ女が言った。
俺の隣に立ってはいるが、別に俺の連れというわけではない。風に集められた積乱雲みたいにもくもくとできた人だかりでたまたま隣に立っていた女。
女の恐怖の対象となるものは一体どれであろう。中心から突き上げられるように割れた無人の漁船そのものが持つ一種の下劣な感興か、この船に乗っていたはずの生きていた何かの残したにおいや行く末の想像の帰趨の先か、船をこんなふうにしたそもそもの原因に寄せる現実的な危機への悲観か。きっとおそらくは、それらすべて。人はたくさんのものに恐怖するし、誰もが何かに恐怖する。
それでいいんだ、と俺は思った。意識的に声帯が生み出す空気の震えを切除すれば、岩礁に打ち付ける荒波の圧倒的な爆音が耳朶を打つ。海の強さだ。雲の力を借りて彼らはその力を鼓舞し人々の心に侵入する。それは魅力的であったりもするし、暴力的であったりもする。
海賊なんて猫も杓子も海と財宝、冒険、暴力に焦がれた男共だと想像される。それは真実ではない。そもそもの大前提として、海にひとつの真実などというものは存在しないのだ。海は常に動き続け、常にその真実の姿を変えていく。
俺にとって海とは何だったか。島と島の間を埋めるただの水だった。そして逃げ場になった。すべてのいのちの源泉だと理解した。そうして俺は自由になった。悪魔の実に手を出したことで彼女たちは俺に対して暴力的になったが、それが沈静されれば、今度はそれは道になった。

潮の香りより強く、湿った雨のにおいがした。
遠くを稲妻が走る。俺は人垣を抜けた。風が強く、何度襟を直しても、それはぴんと立ち上がって俺の頬をつつくのだった。


「ただいま」
「ようやく帰ったかよい放蕩息子」

マルコは煙草をくわえ、親指で眼鏡を持ち上げ小指で涙袋を掻いて言った。マルコの涙袋はぷっくりとしていて、しかし年齢のせいかちょっぴり皺が寄っている。隈はそんなに深刻じゃない。すこし意外だが、彼もなかなか睡眠を好むのだった。

「濡れてんじゃねえかよい」

俺は苦笑いをする。マルコは滴を拭うみたいに軽く俺の頭を数度撫で、肩に滑らせると、そのまま窓際へ寄った。

「まだ小雨だぜ」
「しかしこりゃ降るな。今日洗濯物出さなくてよかったよい」
「マルコは放っておくとすぐ溜める」

腕を組んで肩を壁に預け、窓に側頭部を寄りかからせるようにして外を見ていたマルコは大げさに肩をすくめると組んでいた両手を広げて見せた。俺は笑った。短くなった煙草をつまむと彼はそれをサイドテーブルの缶に入れた。マルコはセンスの良い灰皿を持っていたが、喧嘩をしたときに俺が割ってしまったので、コックにもらったバジルの缶詰を灰皿代わりに使っている。

「今日はどこで遊んで来たんだい」
「おいおい、ガキじゃねえんだからその言い方はねえだろう」

首の後ろを掻いてそう言うと、マルコは楽しそうに目を細めて口角を上げた。ずいぶんと情けない顔をしていたようだ。この船に正式に乗って1ヶ月以上経つが、船員たちの俺の扱いは、暗くなる前に帰って来なさいと言われるレベルから一向に成長する兆しがない。

「鮫か何かに襲われた小さな漁船を見た」

マルコの部屋は狭いけれど、同じ広さに何人もが詰め込まれている船室よりもずいぶんと体が伸ばせるかんじがした。ここにはいつも煙草のにおいとコーヒーのにおいが溢れている。彼は酒は好きだがあまりひとりでは飲まないと言った。汗のにおいが充満する空間に普段はいるせいか、マルコの部屋はとても心地良い。
俺がベッドに飛び込むように寝転がると、マルコはそっとマットレスを沈ませてそこに座る。自分でも、おねむの子どもと絵本を読んであげるお母さんの図そのままだなと思うけれど、シングルベッドなのだから仕方ない。デスクは少し、遠い。

「女の人が怖がってたよ、白いハイヒールを砂浜に埋めて立っていた人」
「まあ、普通の感覚から言やあ、怖えだろうな」
「マルコは何が怖い?」

彼はじとりと横目で俺を見た。迫力のある視線ではあったが、その表情は無表情よりもすこしだけ柔らかい。

「俺はきっと、空が怖い」

俺はゆっくりと目を閉じて、マルコが不死鳥になって空を羽ばたくさまを思い浮かべた。まだ1回しか見たことのないそれ。俺のクルーたちは飛び跳ねて驚き喜んでいたし、白ひげのクルーたちはどこか自慢げだったが、俺はただ黙ってぼんやりそれを見た。
それはとても珍しい光景で、彼の纏う青い炎はきれいであるはずなのに、俺の心に何の感動ももたらさない。ただ、消えてしまいそうだと思った。その姿を見たとき、この男は死を迎えるそのときに体を残さないだろうという漠然とした予感があった。きっと彼は青を纏ったまま、空や海の色に同化し、そしてそのままぷつりと消えてしまうのだ。

「空か。あんたが空を恐れるの、なんとなくわかる」
「おまえならわかるだろうと思ってたよい」

天井に向けていた顔をマルコの方に向けると、髪がシーツにすれて衣ずれの音がした。その音に反応してマルコも顔ごとこちらに向ける。

「俺が不死鳥になったとき見下ろした甲板で俺を見上げてたおまえの、冷め切った瞳は忘れられそうにない」

俺は恥ずかしくて視線をマルコから外した。自分を装っているわけではないが、自分のそういった面を見られるのはいささか居心地が悪かったし、話題にしてほしくないという思いがあった。
マルコが煙草に火をつける音が聞こえた。天井に向かってぐんと手を伸ばすと、マルコが丁寧に両手を使って俺の人差し指と中指に煙草を設置してくれた。ご丁寧に火までつけて。俺自身が火であるというのに。

「俺は海にいてえのによい、空に連れていかれそうだと思うことがたまにある」

マルコの炎は、消えたりしないのだろうか。
ごろりと寝返りを打ち、ベッドに置かれた彼の手の甲をつねってみたらくすぐったそうに払われた。
今度は爪で強めに引っかいてみる。マルコは再び払おうとシーツから手のひらを浮かせたが、俺の意図に気付いたらしく手の甲に小さな青い炎を宿らせる。それは最高の宝石のように思えた。顔を近づければその明かりで顔全体が薄い青色の光を浴び、見つめる瞳にはその色が写り込んでいるはずだ。
俺は炎に指先で触れてみる。あつくないし、触れているかんじもしない。ただそよそよとした微風が指先を撫でているようですこしくすぐったい。
這うようにして近づくと、今度はその炎に息を吹きかけた。もともとずっとゆらゆらしているので、息を掛けてもそれが揺らいだような様子は見受けられない。
ぱく、炎の先を食べてみる。ただ空気の味がするだけだ。相変わらずそよ風のような感覚が俺の唇を震わせる。
舌を出して、ことさらゆっくりとした動作で、炎の根元をべろりと舐める。瞬間、ちいさく揺れていた炎が大きく揺らめいて、喉を直に刺激された俺は思い切り噎せてしまった。

「げ、っほ、ごほ、ちょ、マルコ」
「悪い。驚いちまった」

ちょっと焦ったような困ったような、そんなマルコの様子に思わず笑ってしまってまた咽せる。マルコは上体を起こした俺の肩を抱くようにして、なだめるように肩胛骨のあたりをさすってくれた。
息が整い始めると、俺は大きく息をして、マルコの鎖骨に頬をつけた。

「おい、エース」

ここで俺が舌を伸ばして、目の前の鎖骨を舐めたとしたら、マルコは先ほどと同じように焦ったような顔をするだろうか、困ったような顔をするだろうか、振り払われるだろうか。

「マルコ。まだ行くなよ」

吐息がかかりくすぐったかったのか、マルコの俺の肩を掴む手に一瞬力が入る。しかしすぐに外されたそれに、俺は顔を離すふりをして、意図せず触れてしまったかのようにマルコの肌にそうっと唇を落とした。

「俺は、行かねえし、おまえを行かせたくもない」

マルコの表情を見ようとするより先に今度はマルコの顔が俺の首もとに埋まり、鎖骨を吸われ、甘噛みされる。背中にまわった手に促されるままにベッドにゆっくりと倒れ込む。声は出なかったが、吐息は漏れた。

「マルコ」

俺が好きか。
そんなことを聞く勇気なんて、偶然を装った口付けしかできない臆病な俺にあるはずもないのだ。
好きだと言う言葉を抑えるように、マルコの肩に衣服の上から噛みついた。





空に消える




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