雹でも降りそうなほどの暗雲だった。夕立だろうか。
ぼんやりと外を見つめていれば、鎖骨を撫でていたマルコの手が止まった。すこし気まずそうに喉を鳴らして、胸に置いた手をそのまま首へと滑らせる仕草はいかにも名残惜しそうだ。俺はマルコにばれないように笑いを堪えたのだけど、そのときちょうど彼の手が俺の喉仏に触れていたせいで、一瞬だけメダカのお腹みたいにぷくっと膨れた俺の喉は見事に彼にばれてしまった。マルコは膝で軽く俺の足を蹴った。

「まだ間に合う。夕立に遭う前に帰れ」

俺の顎をなぞるマルコの指は驚くほど甘美だった。あんなに水に触れているのにどうしてだか常に埃っぽい皮膚のざらついた感触、夏の夜のそよ風みたいにうぶ毛を撫でるようなちょっぴり遠慮がちな触れ方、それらは俺の、人間の細胞にあらかじめそっと埋め込まれている狡猾な欲を満たした。マルコの手はいつもそうだ。洞窟の中で泥に埋まって光る宝石の片鱗を見つけ、その無骨な手で地面をこする。そうして全貌を露わにされてしまうのだ、見つかりたくないと願って人目につかぬ洞窟の奥底に身を潜めていた宝石たち、しかしそれらはそうされて初めて息をする。
離れて行こうとするマルコの手に指を絡ませた。彼は始めからこうなるのがわかっていたみたいに、小さく笑った。

「生きている限り雨は降る」

結局避けて通れぬそれを避けて今のこの欲を逃すなど、俺にはできそうもない。基本的に性に関しては比較的謹直な姿勢でいることが多いし、物にもそんなに執着しない方であるけれど、それはもともとの性格である。苦にならないそれらを除いては、俺は、自分の欲を我慢するのは苦手な方なのだ。
マルコは黙って繋がれたままの手を引いて、奥の事務所へと導いた。暗雲を受けて消灯されたその部屋は不気味な色をしていた。彼は俺をソファに座らせ、カーテンを閉めた。部屋はよりいっそう暗くなったが、夜とは違い、物を書いたりするわけでなければ視界には問題がない。
マルコは無言で俺をじっと見た。視線が舐め回すように上下すれば不快だと思っただろうが、マルコは俺の顔から視線を逸らさず、ただじいっと見つめていた。まるで目に焼き付けているかのようだった。
一度視線を外してしまったらもう合わせることができなくなって、俺はとりあえずソファに置いてあったヘルメットをかぶった。自分の唾を飲み込む音がひどく大きく聞こえる。
デスクの電話が鳴った。しばらく放置していると、それは勝手に鳴り止んだ。当然だけれど。相手が取るまで何分もコールを鳴らす暇人はそうそういない。
マルコは窓に寄りかかっていた背をそうっと浮かせ、電話の受話器を本体から外して置いた。俺はマルコが顎を掴んで自分のほうを向かせるまで、ばかみたいに無意味なヘルメットをかぶったまま仰向けに置かれた受話器をぼうっと眺めていた。





雨が降っている。雷雨とも豪雨とも言える激しい雨だ。
ただの夕立だと思っていたのに、雨はやまずに、雷は近寄ってきたり遠ざかってきたりを繰り返しなんだかんだでずっとごろごろしている。
降り始めたのはふたりともが全裸になってまもなくしたあたりで、結局のところ既に3時間は経過しているのだった。俺は時計を眺めながら、普通の人はセックスにどれくらいの時間をかけるのだろうと考えた。
カップに口をつけたが、そのコーヒーはすっかりぬるくなっている。1時間ほど前につくってもらったものだ。俺は喉が乾いていたがひどく暑かったのでそれを数口しか飲まずに水をもらった。マルコは2杯もホットコーヒーを飲んだ。

「止まねえな」

煙を吐き出し、マルコが言った。俺はちょうどコーヒーを口に含んだところだったので返事をしなかった。反応が返って来なくても、彼は気にしていないふうだった。
一度雨が弱まった時に俺は帰ると言ったのだが、まだごろごろが残っていたため、マルコは行くなと言った。変なところを心配する、と俺はちょっぴり呆れたのだが、バイクを屋根のないところにとめてしまったことに気付いてげんなりしたのでこうして未だにおとなしくしている。

「あと30分してもこの調子だったら車で送ってやるよい。お前の腹もそろそろ限界だろい」

「昼飯食ってねえからな。あんたもだろ」

「あんだけ汗かいた後じゃ食う気しねえよい」

「デリカシーねえの」

ソファに散った精液を拭ったティッシュを投げつけると、マルコは根っから嫌悪の対象であるというような顔をしてそれを避けた。比較的のんびりしている印象の強いマルコが滅多に目にしないほど機敏に動いたので俺は笑った。

「マルコ、そんなに嫌がるなよ。神聖な精子に失礼だろ」

「ふざけんじゃねえよい。おまえのならまだしも、そりゃ俺のだろ」

俺は赤くなった。
俺のものはマルコが手ですべて受け止めてくれたし、彼は外に出してくれたので、ソファに散っていたのは確かに彼のものだ。そんな経緯を思い出していたたまれなくなったのはもちろんなのだけど、何よりも彼の言葉がそのままの意味で俺の体温を上げた。

「マルコ、それ俺のこと好きって言ってるみてえ」

熱を散らそうと冗談混じりに言った言葉が完全に墓穴を掘ったのだと気付いたのは、マルコが妙な悲鳴を上げて煙草を床に落としたからだ。
わかりやすすぎる彼の動揺に、俺の方がパニックになる。マルコは決して外面ほどクールな男ではなかったが、しかし誰より大人の男だったのだ。その男が煙草を落として反射的に踏み消した体勢のまま、呆然と自分の足下を眺めている。もの凄く美化して大げさに言えば、ビト・コルレオーネの情けない姿でも垣間見てしまったかのような衝撃だった。もちろんビトのそんな姿は見たことがない。彼はいつだってパーフェクトだ。
そして唐突に俺は目が醒めた。
何度でも言うが、俺は、決してそんなにばかではないのだ。

「マルコ」

名を呼べばマルコは素直に顔を上げた。いまだに状況がうまくつかめていないのか、普段よりちょっぴり間抜けな顔をしている。

「俺のせいだったんだな」

マルコは驚いたようにその瞳を大きくした。もともとぽかんと半開きになっていた唇が何か言おうと更に開いたのを見て、俺は逃げ出した。彼におまえなんて要らないと告げられたあの日みたいに、鞄もヘルメットも全部そこに置いたまま、ブーツの紐も結ばないまま。

「エース!」

マルコが紡いだのは結局俺の名前だけだった。




勢いよく飛び出したはいいけれどあまりの豪雨に外に出てすぐに心が折れた俺はとりあえず隣のサッチの店に飛び込んだ。駐車場を横切っただけなのに俺はずぶ濡れだったし、ひどい顔をしていたし、あまりに勢いよく飛び込んだのでガラスのケージに貼り付いていた家族連れが驚いたように俺を見た。一瞬ひるんだがここでまた出て行くわけにも行かず、勝手知ったるかつての仕事場、迷うことなくとりあえずトイレに飛び込むことにする。
ペットショップのトイレなんて、そうそう人がいるものではない。当然のように、個室がひとつしかない小さな男性用トイレは無人だった。俺はようやくゆっくりと息を吐く。びっしょりと濡れた髪をかきあげて、鏡を見た。思ったよりひどい顔はしていなかった。ただ、さほど激しくはなかったものの久しぶりすぎたセックスに痛む体が悲鳴を上げ始めて、俺は洗面台からゆっくりと離れ、個室のドアを開けたまま蓋の上から便座に座り込んだ。人が座るようにできていないそれは小さく軋んだ。
動揺したまま飛び出してしまったが、既に俺は冷静だった。頭を抱えたがその指は震えていたりなどしないし、頭もしっかりと回るし、空腹感さえ感じることができる。押し当てた手のひらの下で俺は目を閉じた。きっと泣いてしまえば楽になれるのに、ぜんぜん泣ける気がしない。別に泣きたくなどないのだから、それは当然のことだけど。

半年前、俺のことなど遊びだと思っていたマルコは、きっとそんなふうに思っていなかった。ちゃんと俺のことを好きでいてくれた。
軽い気持ちでいたのは、むしろ、俺のほうなのだ。
マルコが好きだった。しかし愛していただろうか。わからない。好意と愛情の違いなんてわからない。誰も俺を愛してくれたことがない。

「おすすめの恋愛映画ってあるか?ロー」

「血相変えてずぶ濡れで飛び込んできたと思ったら何てくだらないこと言い出すんだお前は」

聞こえた足音にやけくそで問いかければ、それはやっぱりローだった。彼の足音には独特のリズムがある。マルコやサッチとはまるで違う、妙なリズム。それはなぜだかすこしだけジョニー・キャッシュの時代を思わせる。

「最低だったのは俺だ」

「知ってたさ」

ドアを開けはなっているため目の前にある鏡に向かって睨みつければ、そこに映る、腕を組んで肩を個室の壁に寄りかからせたローは嫌みなほどににこりと笑った。




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