俺のブーツは確実に彼の耳に届くほどの音を立てているのに、マルコはこちらを見なかった。考え事でもしているのか、ぼうっとしているのか、気付いているけれど敢えてこちらを見ないのか。3番目の理由が1番腑に落ちる気がしてむっとする。わざとらしい音を立ててみるとマルコが弾かれたようにこちらを見た。その表情がはっとしたような、ちょっぴり慌てたような、驚いたようにも見えるものだったので俺はすこし後ろめたくなった。
片手をあげて、螺旋階段をくるくる降りる。マルコはその間煙草に口をつけることもなく、微動だにせず俺を見ていた。その遠慮のない視線を受けて、俺の動作はぎこちなくなってはいないだろうか。見られているという自覚があると、表情もどういうふうにしていたら普通なのかがわからなくなる。
最後の1段を降りて顔をあげると、とりあえずにっこり笑ってみる。マルコの煙草の灰が風に舞い、散った。俺のバイクは風下だった。

「おはよう、マルコ。俺のバイク灰で汚すなよ」

間近で久し振りに見るマルコはやはり何一つ変わっていなかったが、おはようと挨拶を返したきり微笑みもせず俺を凝視するマルコはやはり何を考えているのかわからなかった。

「おい、さっきから何見てんだよ。俺どっか変?」

冗談ぽく彼の肩を手の甲で叩いたが、それが失敗だったとすぐにわかった。軽く触れただけなのに、触れた部分がぼんやりと熱い。愛おしさが溢れ出しそうだった。しかし半年という時間がその感情にしっかりと蓋をした。会わない時間が1ヶ月だったなら、俺はこの場で情けなく彼に縋ってしまったかもしれない。捨てないで、とみっともなく。

「いや、ただ、本当に久しぶりだなあと思ってよい」

マルコは俺の髪を握るようにくしゃくしゃと撫でた。彼は俺にこうするのが好きだった。忘れかけていた当たり前のこと。マルコの仕草や癖をひとつひとつ思い出す。懐かしい気持ちが溢れて、俺は笑ってマルコを見た。ばっちり目が合うとマルコは目を逸らし、髪に触れていた手も所在なさげに宙に浮く。

「とりあえず中入れよい。仕事っつっても教えることはほとんどねえが。おまえはただ受付をして、待合室にいる客とペットの相手をして、最後に掃除を手伝ってくれりゃそれでいい」

「簡単なんだな」

「難しいと感じる奴もいる。おまえだから簡単だと思うんだ。おまえ人当たりの良さだけは相当だからなあ」

これは褒められているのだろう。マルコに見えないように眉をあげたが彼は気配だけで気付いたようで平手で俺の頭のてっぺんを打った。


自分で言うのもどうだろうと思うけれど、俺はオン・オフの切り替えはしっかりするほうだった。大学でもそうだ。休憩時間には友人たちと馬鹿をやってひたすらひいひい騒いでいたけれど、いざ講義が始まれば無駄話などはほとんどしない。まじめな学生だ。睡魔に負けなければだけれど。俺はいつになってもあれにだけは勝てる気がしない。
事務所に通されて、あまりに懐かしいその香りに、マルコと笑い合った記憶に押し流されそうになったけれど、仕事だと思えばそれらをきれいに消し去ることができる。私情で仕事に支障はきたさない。人は学生であろうとおとなとして当然のことをこなさなければ見捨てられる世界に身を置くのだ。一歩家を出たその瞬間から。
事務所には常にシャンプーの香りが漂っている。窓を開ければ新鮮なにおいが鼻孔を通るがこの場所に染み着いたそのにおいは決して消えない。
完全予約制で、駆け込みのトリミングなんて獣医に依頼されない限りほとんどないから壁に貼られたタイムテーブルで最後の客をチェックする。それすなわち俺の終業時間。ここらは一軒家の立ち並ぶ住宅地であって一人暮らしがペットを飼うこともそんなに多くないということから、マルコも日曜は比較的緩いスケジュールで動いている。掃除の時間を考えても、5時にはあがれそうだった。

「マルコ今日昼飯食う時間ねえな」

「言っておくが俺がねえってことはおまえもねえぞ」

「まじかよ!」

大げさに両手で頭を抱えるとマルコが声を出して笑った。

「給湯室のワゴンにカロリーメイトがある」

「足りるわけねえだろ。マルコ、その歳で痩せると痩せた分が皺になるんだぜ」

「殴られてえか」

「もう言いません」

「無駄口叩いてねえでテーブル消毒しろい。手袋しろよ」

ショルダーバッグをヘルメットの中にいれて、部屋の隅にあるふたり掛けの古びたソファに放る。手が空いたのを見計らったようにマルコがエプロンを投げて寄越した。上着もヘルメットにかぶせるように放り投げて、エプロンをかぶる。サッチのほうのバイトみたいに店名の入った制服があるわけじゃないから、マルコは適当なエプロンを使っていた。いつも黒だけれど。俺に寄越されたこれは彼が使いそうもない優しげなモカブラウンだったから、今日休んでいるスタッフのものなのだろう。調節された紐が俺には短い。手袋なんてどこにあるんだと聞きかけたが、それはしっかりエプロンのポケットに入っていた。欲しいものがポケットに入っているなんて、まるでアリス・イン・ワンダーランドだな。

掃除を終え、手袋を外すと独特のすっぱいにおいが鼻につく。なかなかとれないんだよな、このにおい。顔をしかめて手のにおいを嗅いでいると、嗅いでんじゃねえと後頭部をひっぱたかれる。

「ワンコ嫌がらねえの、このにおい」

「ワンコよりも俺が嫌がる」

「はめさせたのあんたじゃねえか」

マルコは笑って俺の手首を引いた。俺は一瞬驚いて、ばっくんと心臓を食べられたみたいに感じたけれど、その動揺はうまいこと筋肉を伝わらずに済んだみたいだった。
歯医者によくあるみたいなチョロチョロする水道に似た水場に連れて行かれる。そこには金桶が設置されていて、白濁に濁った水が若干の泡を浮かせて空調に合わせて表面をゆらゆらされていた。
マルコは撫でるようにそっと手のひらを俺の腕に沿わせ、シャツの袖をゆっくりとまくり上げていく。そのあまりに優しい手つきに、俺はうっとりとした息を吐いてしまいそうになるのを唇を噛んで耐えた。それはどう考えても、普段人が人に触れるときにするような仕草ではなかった。あからさまに含まれた色っぽさに、俺は唾を飲み込むことすらできやしない。
マルコはそのまま、同じように優しい手つきでちゃぷちゃぷと小さな水音を立てながら俺の手を洗った。彼の指が俺の指と指の間に入り込み、水掻きを引っかいていくたびに恍惚とした吐息を耐えた。
マルコはダンスのお誘いみたいに俺の両手の指先を軽く握るとそのまま水から引き上げる。そして横にあった移動式のワゴンの上に敷かれたタオルのもとへといざなった。
マルコは何も言わずに手を離すと、鼻をすすって小さな咳払いをしながらチョロチョロ水道のもとへ戻り、その桶をすすぐ。顔は見えなかったし、見ようとも思わなかった。俺は無言の空気をどうにかしようともせず、ただ無心に真白いタオルの上で両手をぽんぽんさせていた。手から水気がすっかり失せるまで、ひたすら火照った手のひらをごまかすように、ふわふわのタオルの感触だけを感じていた。




人間とは学ぶ生き物だろうか、それとも学ばない生き物だろうか。二度と同じ過ちを犯すものかと思いつつ、気がつけば同じ過ちを犯している。
互いにほとんど休む暇もなく働いていたというのに、たまに目が合うとマルコの目が俺を愛おしそうに見ているのがわかる。そして俺が吐き気がするほど焦がれた瞳で彼を見てしまっているのが自分でもわかる。仕事に集中しすぎたせいで、それは完全に無意識の産物だった。言葉を交わすことはほとんどなかったのに、俺たちは完全にもとに戻ってしまっている。
動揺はなかった。気がつけばそうなってしまっていたのだ。ふとそのことに気付いた、ただそれだけのこと。逆に言えば仕事に集中しすぎてそのことばかり頭にあったから、動揺する暇もなかったのかもしれない。
ここは俺のアトランティスなのだ、と俺は思った。最後の客が帰ると、いまだカウンターに立つ俺の背後にマルコが寄ってくるのがわかる。
俺はこれから神罰を受け、海底に沈むのだ。









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