頭痛がする。
ちょっとやそっとの体調不良で薬に頼ることはしたくないが、いい加減に眠らなければならない。自己管理は大人の義務だ。体中に血を巡らせることが心臓の義務であるのと同じように。

医務室のあたりはしいんとしている。ここを使うことなんて滅多にないからだ。航海は平和である。大きくなりすぎた組織は一定の域に達するとその名に守られる。
薬物特有の粉っぽいにおいもしない。ただ、成熟した木材の芳香だけがする。医務室の隣に設置されている船医の私室からは大きな鼾が聞こえた。静かすぎる空間で、不快なはずのその音はどこか安心感を与えた。


がらがらがっしゃーん。



「…何やってんだよいエース」

「おお、マルコ。こんばんは。何で俺だってわかったんだ?」

「うるさい音が聞こえりゃあ、そりゃ大抵おまえだ」

名を呼ばれ、棚の影から顔を覗かせたエースは、はははと笑った。馬鹿にされていることに気付いていないのかもしれない。
よっこいしょ、とひっくり返した箱を元の位置に戻す彼は常のハーフパンツ姿ではなく、裸足にサンダルを引っかけて膝下まであるラインのゆるいパンツとシャツを身に纏っていた。ブレスレットは着けたままだがネックレスとサポーターは外されている。

「マルコは?睡眠薬?」

質問とともに投げ寄越された瓶をキャッチする。それは俺が探しにきたものだった。思わず肩をすくめる。エースは歯を見せて得意げに笑った。

「こんな時間にここに来るっつったらそれだろ。徹夜続きで眠り方忘れちまったんだろ」

「あながち外れちゃいねえな」

「おいおい。しっかりしてくれよ1番隊隊長」

軽口を叩きながらエースの体を観察してみるが、特に怪我をしているようすはない。彼はああ言ったけれど、この男に限って睡眠薬を探しに来たなんてことはないだろう。彼は1日の半分寝ている。
じっと見ているとさすがに視線に気付いたのか、エースが首を傾げた。ん?なに?と純粋に瞳をのぞきこんでくる仕草は素直でかわいらしい。
俺が顎をあげるように振ると、エースはようやく俺の意図に気付いたようだった。ぱちりと瞬きをし、きまりが悪そうに視線を逸らして耳の後ろをかりかりひっかく。

「あー…俺は…」

腕を組んで片眉をあげる。彼がこのように言い淀むことは珍しい。彼は思ったことはそのまま言うし、言いたくないことは完璧に隠し通す。どこで身につけたのかわからないが、エースにはそういう力があった。悪い力だ。

「エタノール」

観念したように呟いた彼の言葉に俺は一瞬、世界を失った。



「てめえ、アホか!」

あわてて彼の手から薬品箱をひったくると、慌てすぎて手元が狂い、中身をぶちまけてしまった。
ああ、非常に俺らしくないと思いつつ額に手を当てる余裕もないほど必死に床に転がる薬瓶のラベルを走り読む。そこにエタノールはない。俺は顔をあげてエースを睨む。彼は必死に両手を振った。

「持ってねえよ!」

ため息をつくと、つんと薬品が香る。エースが触れることを禁止されていない程度の濃度の薄い消毒液のにおい。衝撃でひとつ割れてしまったみたいだった。


船の中にはエースが触れることを禁止されているものがいくつかある。未調合のエタノールもそのひとつだ。もっとも燃料補充の際にはそれが許されているけれど、基本的に彼は危険物扱いだ。火気扱いと言ったほうが正しいか。
右目に右手をあてて、ため息を吐く。ふとエースを見れば、彼はさりげなく薬品棚に視線を走らせていた。睨みつけると、それに気付いたエースは一瞬苦笑を浮かべた後、自分の手を眺めて知らんぷりをした。

「おまえ風呂便所掃除から外してやってんだろ。そんなもん何に使うんだよい」

「靴」

「靴?」

「そう、いつも履いてるブーツ。そろそろ手入れしてやんねえと」

先日上陸した島では雨が降っていて、地面がぐちゃぐちゃになっていたことを思い出す。いまだその島の気候から抜けきっておらず、よく小雨に降られるし、雨は降らずとも吹く風はどこか湿っぽい。
俺は足下を見た。寝間着姿のエースとは違い、俺はしっかり常の服装を着込んでいる。右足を軽く上げ、靴か、と俺は思った。

「俺もそろそろこいつを休ませてやんねえとなあ。おいエース、靴貸せ。ついでだ、一緒にやっといてやるよい」

エースは勢いよく顔を上げ、目を大きく開いて眉を下げた。口がゆっくり開いて、また閉じる。何をどう言ったらいいかわからないみたいに、ゆっくり時間をかけて喉元の声を出そうとがんばる姿に、俺は何も言わずじっと待つ。

「だ、だめだろ、そんなの。任せらんねえよ。特に靴なんて」

はあ。
いやにきっちりしているガキだ、と前々から思っていたが、この青年は本当に礼儀だとか常識的な体裁だとか、そういったものに敏感らしい。
年上で目上である俺に靴を磨かせるということは、彼にとっては許容範囲外らしい。もっとも彼はそれを自分の部下に頼むこともできないから、こうしてわざわざ夜中にこっそりここに入ったのだろうけど。こっちのほうが怒られると思わないのだろうか。思わないんだろう。
馬鹿だなあ、と俺は思う。彼が一言、靴の掃除をすると呟けば、すすんで名乗りを上げる輩が大勢いるだろうに。誰も船を失いたくはない。実際、彼がオーズのために笠を編んでいたとき、エースのまわりには5人がバケツを持って彼を円形に取り囲み、いつでも消火にあたれる体制を整えていた。さすが2番隊員は火の扱いに慣れている。

「とにかく、だめだ」

エースは、今度ははっきりと言い切った。
彼の、立場などを抜きにしても人間、それ自体を尊敬できるその態度は賞賛に値する。

ざっと視線を走らせると、棚のいちばん下に、大きな薬瓶が置いてあるのが目に入る。使用用途の多い薬品は多く仕入れるのが普通だ。こんなにでっかいのになぜエースは見つけられなかったのだろうか、俺の睡眠薬はすぐに見つけられたくせに。危険な薬品は小瓶で厳重に管理されているという先入観だろうか。どこまでも馬鹿だ。目当てのそれはエースにとってはたいへん危険であるけれど一般人にとっては単なる消毒液である。

棚の前にしゃがみこみ、大瓶を手に取る。そのまま振り返って瓶を掲げてやれば、エースはあからさまに脱力したようすを見せた。俺は笑った。

「何も高濃度である必要なんざねえ。俺がおまえが触っても怒られねえ程度に作り替えてやるから、明日まで待ってろい」

エースはすこし驚いたように俺を見て、ちょっと考えるように視線を斜め下に落とす。そして笑った。

「サンキュー、マルコ!」

上機嫌で言いつけどおり部屋に戻ろうとドアノブを掴んだエースは、ドアを開けると振り向いて言った。

「優しいな、あんた。恩に着るぜー。おやすみ」

俺が優しいんじゃなくて、おまえが人を優しくさせるんだ、なんて。
やれやれ、俺もたいがい末っ子には甘い。



靴磨き








11.02.10






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