指定された時間は8時だったが、俺は7時に店にバイクをつけた。店の横の螺旋階段をのぼると、ショートブーツが透き通った音を立てた。表の大通りは車が列をなして走っているけれど、その1本奥の道沿いにあるこの店のあたりはしんとしている。さらにもう1本奥の道へ行けばそこはもう住宅街だ。時間帯を考えれば当然のように人はまばら。最寄り駅は比較的アクセスがいいから、この時間にスーツを着て歩いている人々は遠方へ通っているのだろうか。店の横の煙草の自動販売機にタスポを通しているスウェット姿の若い男に一瞬だけ目を遣って、扉の前に立った。
バイクのキーを握ったまま直立して耳を澄ませば、中からはビーチボーイズが聞こえてくる。素敵じゃないか。良い曲だ。大好き。しかし今はその曲を聴きながら朝食をとっているだろう男が憎らしくて仕方がない。何が素敵だ、馬鹿野郎。

「サッチ!さっさと開けろこの野郎!」

キーを握った手で扉を叩けば、とてつもなく不快な金属音が響いた。ダンダン、ダンダン、そんなノックを3回繰り返したところで扉が開いた。驚いたように俺を見ているサッチはTシャツにパーカーを羽織り、下はパジャマのままだったがリーゼントは完璧に整っている。

「エース?まだ7時だぜ」

「わかってるよ!何で来たかなんて、あんただってわかってるだろ」

サッチはすべてを知っている。店をやめることを告げたとき、俺の肩を抱いたのはこの男だ。そんなことで、と文句も言わずにやめさせてくれたのもこの男だし、不条理な感情をぶつけた俺の頭を撫でてくれたのもこの男だ。

「まあな。メールに返信もねえし、いつ来るだろうと思ってた。まさか当日とはな」

「うるせえな。あんたに文句言うのを忘れてたことを思い出したのが今朝なんだよ」

「早起きしたんだね」

「馬鹿にしてんのか!」

肩に置かれたふざけた右手を振り払うと、サッチは困ったように笑って中に入るよう促した。
サッチの家は広い。もともと4人家族が住んでいた部屋だからそれは当然かもしれない。彼の家にはスリッパがなかったので、それが習慣になっている俺には足元が少々頼りなく感じた。ここには玄関までしか入ったことがなかったので、あちこち眺めているうちに興奮していた気持ちは沈静されていく。私室は3部屋あったけれど、そのうちのひとつはほとんどサッチの同居人と化している契約先の獣医師の部屋になっていた。

「今日イゾウは?」

「入院してるワンコがいるからおとといから自分のところに戻ってる。よかったなエース。あいつは朝が苦手だから、今日居たらお前耳引っ張られてるぞ」

俺は肩をすくめた。まったくその通り。あの男は容赦がない。見るからに人を虐げるタイプの人間だ。

「もうすぐトラファルガーが来るから俺は朝飯を食うけど、おまえは?食うか?」

「もらう」

「助かった。イゾウが急だったから、材料2人分あるんだよ」

サッチは冷蔵庫からバナナヨーグルトを取り出した。サッチはヨーグルトが好きじゃないから、なるほどこれは処理に困っていただろうなと遠慮なく食卓の椅子をひく。サッチは子どもの頃もともとは料理の学校に通うつもりだったと言っていたから、彼の料理にありつけるのは有り難い。

「遅くなったけど、久しぶりだな、サッチ」

ぽかんとした顔で振り向いたサッチは、しかしすぐに笑顔になった。
店をやめてから、彼には1度しか会っていない。なんとなく気まずかったのもあったし、俺のようすが彼を通してマルコに伝わるのがなんとなく嫌だったから、誘いは断ってしまっていた。気にすることもないのかもしれないが、元来社交的でおせっかいの気があるサッチは絶対におれと会ったらそれをマルコに話すだろうという確信があった。
彼がベーコンを焼き上げるまで俺は黙ってヨーグルトを食べた。朝食のメニューがすべて出揃ってサッチが向かいの椅子をひくと、俺は伺うようにちらりとサッチを見た。サッチは心底おかしそうに笑った。

「悪かったよ、お前等の別れ方知ってたのに指名しちまって」

「別れるもなにも、俺たち別に付き合ってたわけじゃない」

「ははは。強がるなって。マルコお前にでれでれだったじゃねえか」

「はあ?どこがだよ。完全に俺の片思いだったよ」

俺は開き直って両手を広げた。ああそうだよ、俺は完全にマルコに惚れていた。言い訳などできないくらい完全に。
マルコに触れられれば嬉しかったし、恥ずかしかった。それは憧れの気持ちではなかった。俺はもう思春期の若者ではない。10代の頃にそれなりに恋愛をして、それがどういうものなのか既に俺は知っていたし、自分の感情にもそれほど鈍感ではなかった。きっかけなど特にはない。彼の笑顔は他の誰の笑顔とも違う感情で俺を満たした。ただそれだけのことだ。そして相手が男だということに混乱する間もなく手を出された、それだけのこと。一度キスをしてしまえば困惑する間もなく性別なんてどうでもよくなった。最初のキスのあと、ただマルコが好きだという気持ちだけが俺に残った。

「今更な疑問なんだけど、マルコって男が好きなのかな」

「いや、あいつは何も考えてない」

「それだけで男抱けるもん?」

「人によっては」

サッチは真顔でひたすらパンをかじっていたが、ふと目が合うと急に笑い出した。彼が笑ったせいでパンくずが飛んだ。

「なんで笑うんだよ」

「いや、なあ。お前も何も考えてなかったんだなと思ってよ」

意味がよくわからなかったが、聞いてもサッチは教えてくれないだろうと思ったのでとりあえず顔には出しておいて、言葉で尋ねることはしなかった。いつの間にかビーチボーイズは止んでいた。ラジオだったらしい。素敵じゃないかはペットサウンズの1曲目だ。さすがにこの短時間でCDが1枚まわるわけがない。次の曲はカーペンターズだった。王道ばかりやってくれる割に趣味が良い。なんという番組だろうかと俺は思った。俺の家にはラジオなんてないから、知ったところで何だという話だけれど。

「でもよ、エースお前男はマルコが初めてだったんだろ?」

「ああ」

「欲しくなったりしなかったのか」

朝からする会話じゃないと思ったが、そんなことはどうでもいいように思えた。今更サッチに隠すことなど特にない。

「ちょっとだけ。でもあれっきり。あれ以来何もない」

仲間と夜遊びに繰り出すことは多々あれど、俺は他の友人たちのようにクラブで女を引っかけることなどしなかったし知らない人に声をかけられても気軽に乗るようなタイプではなかった。単純に仲間と騒ぐためだけに夜に外出し、たまには悪くはないかなと思いつつも外出するときはただ目的だけを果たして帰宅した。根がまじめなのだ。山羊座だし。そんな俺が男を引っかける術なんて知っているわけはないし、そんなことは考えもしなかった。
最後のベーコンを押し込んで口をもぐもぐさせながらサッチを見たら、コーヒーを飲みながらゆるく微笑んでいたので、俺の答えは彼にとって良いものだったのだろうと思った。




サッチが着替えている間に、朝食をごちそうになったお礼にと食器を片づけているとインターホンが鳴った。ローだ。動物たちのようすはサッチが朝1番で見るけれど、朝食をあげたりするのはアルバイトでもやっている。早番から入るときはそこから仕事が始まるので、開店は11時だがシフトは8時からだった。そのローが来たとなれば、俺もそろそろ行かなくてはならない。

「よお」

ドアを開けて挨拶すれば、ローは一瞬びっくりしたような顔をしたけれどすぐに同じ挨拶を返した。ローはいつもの白い帽子ではなくヘルメットをかぶっていた。

「トリマーが探してたぞ、エース」

俺は腕時計を確認した。まだ7時45分、遅刻はしていないはずだ。どうして、とたずねる前にローがバイク、と言った。マルコが俺のバイクを見つけたのだろう。
久しぶりにサッチとマルコの話をしたからか、それほど緊張はしていなかったけれど、表情が堅いとローに頬をぱんぱん叩かれる。俺は苦笑いをした。

「情けないな」

「うるせえよ。昨日、電話では普通に話せたから大丈夫なはず」

「どうだか」

「うるさいって。俺行くから、サッチによろしく。部屋にいる」

螺旋階段をおりていくと、俺のバイクの前に立って煙草をくわえるマルコが見えた。まだ俺には気づいていない。それを良いことに眺めて見ると、マルコは服装も髪型も以前とまったく変わっていなかった。当然かもしれない。きっと俺も変わっていない。人は半年では意識して変えない限りそうそう変わりはしない。
やはり緊張しているのか喉のあたりでどくんどくんと脈打っているが、気分は逆に晴れやかだった。彼の姿を半年ぶりに認めて喜んでいる自分を認識すると同時に俺は思った。きっと俺はまだマルコが好きなのだ。





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