ローから折り返しの電話があったのは結局夜8時を過ぎた頃だった。その時間帯は俺が出られなかったので、10時をまわった頃に駅で缶コーヒーを飲みながら電話をかけてみると、最高に不機嫌な声で「うるさい」との第一声。

「悪い。勉強中?」

「いいや。映画を見てた」

「ヒッチコック?」

「どうしてわかる?」

「お前の家にはそれしかないから」

ローは返事をしなかったが、代わりに大きく息を吐くのが聞こえた。溜息ではない。煙草を吸っているのだろう。おそらく図星だったにちがいない。

「まあ、用件はわかってる。どうしてお前の仕事がトリマーのところだと黙っていたか、ということだろ」

「わかってんじゃねえか」

「お前も分かれよ。断られるからに決まってるだろうが」

そりゃあそうだ。サッチの元ではなくマルコのところだと知っていたなら、俺がこの話を受けるわけがない。
俺が黙り込んでいる間、ローも辛抱強く黙っていた。後から考えれば、散々不在着信を残した挙げ句かけ直してみればだんまりを決め込むなんてずいぶんと迷惑な話なのだけれど、その時の俺にはそんなことを考える余裕はなかったし、ローもそれなりに罪悪感があったのだろう。文句ひとつ言わず俺が話し出すのを待っていた。

「知りたいのは…重要なのは、ひとつなんだよ」

俺の背後で電車がホームに滑り込んできた。反対方面行きだ。都心に向かうそれは当然のようにすいていて、ほとんど人の出入りがない。駅のアナウンスだけが大きくプラットホームに響いている。

「俺を、指名したのは」

「店長」

間髪入れずに帰ってきた答えに信じられないくらいに落胆した。自嘲のような吐息が漏れる。提案したのがサッチだとして、マルコはヘルプが俺だと知っているのだろうか?知っているだろう。それでも否と言わなかったのは、つまり、そういうことなのだ。マルコにとって俺はもうすっかり片のついた過去の人間であり、俺の顔を見たって、あのやる気のなさそうなぼんやりした顔は何ひとつ思うところなんてない。

「…ほんとうに、ふざけんなよあのクソ野郎」

「元気じゃないか。その調子で行け、エース」

「こんな調子じゃ俺はマルコの顔を見た瞬間またぶん殴っちまうかもしれない」

「俺のいる時にしろよ。そういう面倒事に巻き込まれるのは嫌だが、見てる分には大好きだ」

電光掲示板が電車の到着を知らせるために点滅を始める。このまま電車に乗るのだと思うとひどく憂鬱になった。家に帰ってからローに電話をするべきだったと、目の前の歯医者の広告看板を見ながら思う。電話を切れば耳に入るのは現実的な喧噪だけだ。俺はそれに触れたくなくて、肩で電話を耳に押しつけながら片手でイヤホンを伸ばした。

「電車が来る。切るぜ」

「日曜8時、忘れるな」

「忘れるかよ。お前はいる?」

「フルシフトだ」

軽く挨拶を交わして電話を切りそれをポケットにしまうと、すぐにイヤホンを耳に挿した。手のひらサイズのiPODクラシック、流れてくるのは永遠のヒット・ナンバー、スタンド・バイ・ミー。サボに会いたいと俺は思った。サボは家族同然で、無償の愛を惜しげ無く俺にくれるのだった。時折夢に見る彼は相変わらず俺の脱ぎ捨てた服を足で廊下に蹴り出して、自分はあちこちに煙草の灰をまき散らす。俺たちはイギリスに居る。サボの留学先はアメリカなのだけど、どうしたって彼にはイギリスが似合うと俺は思うのだ。
サボのことを考えると、俺はマルコのことを考えずに済んだ。きっと俺は傷ついていたのだ。マルコに捨てられたという感情が拭えない。そして俺は過去のサボの愛情に縋ってしまう。その愛情がマルコのものとまったく別の類のものであるとわかっていても。




1週間のうち、まるっきり予定のない日は日曜日だけだ。稼ぎ時の日曜日がなぜすっかり空いているのかといえば、アルバイト先のレストランが個人経営であり、オフィス街にあるからだった。客層のターゲットはほとんどがビジネスマンで、平日はランチタイムはもちろんのこと、打ち合わせなどでも使われるため1日中客のいる状態なのだけれど、日曜日は比較的閑散としているため休むことにするのだとマキノは言った。彼女は絵を描くことが趣味なので、日曜は電車で30分ほどのところにある海沿いの公園でスケッチに没頭しているみたいだった。彼女の絵はひどく独特で、うまいのかどうなのか俺にはわからない。
土曜日は休日出勤のサラリーマンたちも早くに帰路につくのでシフトは夕方までだけれど、夜は出かけることが多い。友人たちも朝からたっぷり働くことが多いため、夜は空いていたりする。しかし今日に限って誰も空いていなかった。ひとりでいたくない時ほどひとりになるしか選択肢がなかったりするものだ。
仲間とよく行くクラブにひとりで顔を出す気にも、好きな映画を見る気にもなれなかった俺はその夜両足を椅子に乗せて縮こまってドライフルーツをつまみながらぼうっとパソコンで動画を見ていた。先日行われたユーベとバルサのハイライト。イタリア語なんてまったくわからないが、ゲームを見る分には実況なんてなくても問題はない。

ゲームに熱中していたわけではない。俺はこの試合の結果を知っている。ただひたすらに何も考えられなくて、ぼうっとしていただけなのだ。
だから年中マナーモードの携帯がベッドの上で放っていた雑誌に接触してぶるぶると音を立てたとき、何も考えずにそれを耳にあてた。

「はいはい。どちらさま?」

「お前俺の携帯番号消しやがったのか」

俺は慌てて携帯を耳から離し、画面を見た。登録していない番号だが、聞こえた声には嫌というほど聞き覚えがある。
一瞬頭が真っ白になったが、離れた通話口からなにやら喋っているのが聞こえて我に返る。すると俺の気持ちはびっくりするほど落ち着いた。顔が見えないからだろうか。心臓はびくびくしているけれど、頭は、口は、冷静に言葉を発することができる。

「画面見ずに取ったから」

と俺は言った。実際にはこのとおり、すっきりさっぱり彼のデータを削除してあったのだけれど、わざわざ消すなんてそれは女々しいような気がして誤魔化した。

「明日のこと?」

「ん?ああ、まあ…そうだな。そうだよい」

マルコの言葉はいやに歯切れが悪かったが、彼はたまにそういう時があった。何かをしながら電話をしている時だ。器用そうに見えて、ふたつのことを同時にできない男だった。今の時間帯、トリミングは終了しているがまだマルコは店に残っている頃だったので、ペットボトルのキャップを開けているとか散らかったデスクからボールペンを探しているとかそんなものだろうとあたりをつける。それを確信に変えるように、直後にプルタブを開ける音がした。ペットボトルではなく缶だったらしい。

「マルコ?」

「ちくしょう。こぼしたよい」

「ははっ。馬鹿」

俺は自然に笑っていた。昨日は顔見たらぶん殴るだなんて物騒なことを漏らしていたくせに、やはり俺は彼と話すのが楽しかった。まだ名前すら呼ばれていないのに、用件も聞いていないのに、たった2言3言言葉を交わしただけなのに、彼の声は嘘みたいに俺の気分を高揚させる。
もしかしたら、俺は考えていたほど彼に対して深刻ではないのかもしれない。この調子なら明日会っても以前のように振る舞えそうだ。考えるよりやってみろ、って誰の言葉だったっけ?天才だ。シンプルなのに、まったくそのとおり。

「エース、明日だが、給料出すのに必要だから印鑑だけ持って来い」

「ラジャー、ボス。用件それだけ?」

「ああ。切るぞ」

返事をする前にあっさりと電話が切られた。じゃあな、もおやすみもない。
あまりにもあっさりしすぎていて、さきほどまでマルコと会話をしていたのがひどく非現実的に感じられた。俺は通話記録を表示してみる。そこにはやはり先ほど見たものと同じだと思われる携帯番号。とりあえずマルコと登録して、ぼんやりと通話ボタンを押してみる。

「なんだよい」

マルコが出た。俺は何も言わず電話を切った。
携帯をベッドに放り投げて、無言電話は不審すぎただろうかと思ったが、しばらく様子を見てみても特に折り返しもなかったので、まあいいかと放置する。
マルコは本当にただあれだけの用件のために電話をくれたのだろうか。彼はそんなにまめで慎重な性格ではなかったはずだ。むくむくと報われない期待が芽吹きそうで、俺はぎゅっと強く目をつぶって、両手で瞼を押さえた。
何が、普通に振る舞えるんじゃないか、だ。今になって、この両手が震えている。






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