気が付くと俺はソファにいて、マルコは俺の肩を抱きながら優しく頭を撫でてくれていた。ひどく瞼が重い。泣き疲れて眠ってしまったのかもしれない。俺にはソファに移動した記憶なんてない。きっと短い時間だ。口の中の不快感はさほど激しいものでもない。
マルコのコートの胸のあたりをぎゅっと握ると、マルコは頭を撫でる手を止めてそっと顔をのぞき込んできた。俺はすこし恥ずかしくて、ごまかすみたいにマルコの体に頬を擦り寄せた。マルコは優しく微笑んだ。

「おいおい。あんまりかわいいことすんなよい。俺の方がどうしていいかわからなくなる」

俺は真っ赤になった。マルコは声をあげて笑った。

「機嫌いいな、マルコ」

「はっはっは。そりゃあなあ。覚えてるか。言ったろい、緊張してんだって。それがようやく解れた」

勝手なことをして、と怒鳴られるかと思ったと、おまえに本気すぎて逃げられるかもしれないと思ったと、彼は不安を口にした。まったく俺のことをわかりすぎていて嫌になる。
実際俺は以前だったらそうしていたかもしれないし、彼でなかったのならばそうしていたことだろう。しかし彼とセックスをして、その後を過ごして、恥ずかしいほどにわかってしまったのだった。彼は俺を愛している。理解することと信じることはやはり別物だと思ったが、今のところ重要なのはただ事実のみだと悟る。今はそれでじゅうぶんなのだ。マルコと過ごした時間を数えてみればそれがわかる。一度にすべてを求めすぎてはいけない。マルコだからだ。少ない時間でも彼が信頼できる男だということはよくわかったし、だからこそ、ゆっくりやろうと思えた。

「マルコ」

「なんだい?」

「ありがとう」

俺は泣かなかった。笑うことができた。すると今度はマルコの方が泣きそうな笑顔を見せた。俺はどうしようもなく彼が好きだと思った。




「見せたいものがある」

外に出ると日はまだ高く、しかし風はおさまりかけていた。
封筒から取り出した自分の身分証明の書類をじっと眺め続ける俺にマルコがそう切り出したので、俺はコートを羽織って、マルコは荷物をまとめて家を出た。
数時間前まで快晴だった空には雲が出始めている。雨は降りそうにないが今夜は星が見えないかもしれない。特に星を眺めるのが好きというわけではないが、星の見えない夜は孤独を感じさせるので俺はあまり好きではなかった。
マルコはいやに饒舌だった。とても楽しそうに自分のことを語った。好きな本のこと、映画のこと、蝶のこと。彼が気に入っているカフェのメニューはことさら俺の興味をかき立てた。おとなだな、と俺が言うと、彼は市場で買った果物をその場でかじる時間も好きだと言った。町に溶け込むことができる瞬間。その時間は、すべての人間がすばらしい生き物に見える。

ふとおりた沈黙に俺の耳は冴えた。思わず足を止めた俺に、マルコは優しく俺の名を呼んだ。エース。
俺は動かずにただ小さく首を振る。

「マルコ、だめだ」

「大丈夫だ、エース」

「だめだって。誰かいる」

冴えた耳に届いたのは、自然が持ち得ぬ物音だった。さらに耳を澄ませば誰かが支持を出すような語尾の強い人の声、笑い声、陽気な歌。

「おい、どうしたんだよいお前」

俺はただ嫌だと首を振ることしかできなかった。
感じたのは確かに一種の恐怖だった。急に自分が何者かはっきりと自覚するあの感覚。誰かと軽口を叩きながらジョッキをぶつけることへの憧れ、普通の町人にはなんでもないはずのそんなちょっとした行為に憧れることしかできない自分。
ここから数歩飛び出せば、俺とマルコはやはりぜんぜん別の生き物でしかないのだ。それを突きつけられるのが嫌だった。

「情けねえなあ。エース、お前俺がおまえの城で会ったとき俺が言ったこと覚えてねえのか」

返事をする前に、マルコに思い切り髪を捕まれて言葉はうめき声に変わった。痛い。髪をそのまま後方に引っ張られて、無理矢理顔を上げさせられる。マルコは唾を吐きかけたくなるほど憎らしい顔をしていた。本気で俺を情けないと思っている顔だ。

「逃げんじゃねえよい。オヤジを落とせなかったら俺を落としてみろ、って言っただろうが。俺はしっかり落とされた。俺が惚れたのはこんな駄々っ子小僧か。違えだろい」

唇を尖らせて睨みつけると、マルコは一変して破顔し、手を離した。

「ぜんぜん怖くねえ」

「うるせえな!」

「ははっ。大丈夫だよい、何も変わらねえ。お前が素直に俺に触らせてくれるようになったこと以外は」

器用に右の口角だけいやらしく上げたマルコの顔が近付いてきたので平手打ちをくらわせると、彼は恨めしそうに俺を見た。彼の唇も拗ねたみたいにとんがっている。俺は笑った。

「ぜんぜん怖くねえ」

「かわいくねえよい」

「そりゃ嬉しいな」

腕を組んで得意げに首を傾げると、力強くマルコに肩を掴まれる。突然のことに彼の表情を伺うことはできなかった。すぐ後ろにあった木の幹に体を押しつけられて、至近距離に見えたマルコの体に慌てて反射的に目を閉じると、触れたのは唇ではなく額だった。頭突きをするみたいに勢いよく寄ってきたけれど、こつん、というかわいらしい擬音が似合うほどにやさしく、彼は俺の額に触れた。目を開けたらそこには彼の、美しいが非現実的な美しさではない、明らかに常人のそれとわかるふんわりと濁った青い瞳があるのかと思うと、とてもじゃないが目を開けることなどできなかった。
恍惚としたような吐息が漏れる。

「おまえはもう町の亡霊じゃない。立派な町民だ。胸を張れ」

手のひらでそっと胸を押される。ゆっくりと目を開くと、柔らかに細められたマルコの瞳が俺を見ていた。じっと見返すと、マルコの肩から力が抜けていくのがわかる。
正直なところ、自分に根付いた自身のコンプレックスとも言える強い自己嫌悪にマルコの言葉は弱すぎたけれど、やはり彼の体温は俺を変にするのだ。彼がたとえ何も言わなかったとしても、やさしく体に触れるその手のひらの感触は無条件に俺を安心させた。
マルコの顔から視線をさらに奥に遣り、じっと凝らせば、そこは見慣れた場所であり見慣れた石壁が茂る森林の隙間からその姿を覗かせている。俺は顎を上げ、太陽の光を失いつつある空を見た。特に美しくもないが、しかし何か特別な日の思い出のように鼻に通る澄んだ冷たい空気があった。

「あんたのすること、なんとなくわかっちゃって嫌だな」

「おまえのことを考えてやってんだ。当然だろうが」

「…なあ、マルコ」

「ん?」

伺うみたいに首を傾げて顔をのぞき込んでくる彼、これは彼の癖なのだろうか。俺はこの癖が好きだと思った。こうするときのマルコはとても優しい目で俺を見る。無表情だろうが何だろうが、俺のことを気にかけているということがはっきりと伝わってくる。それは照れくさくもあるんだけれど。

「俺はぜんぜん素直じゃねえけど、今素直になるとすれば…あんたにキスしてえな」

マルコはちょっと驚いたみたいにまばたきをすると、笑いを堪えるみたいに唇を歪ませ、咳払いをし、直立した。

「おい、ばか、待ってんじゃねえよ!しろよ!」

「おまえがしてくれるんじゃねえのかよい」

「ここはあんたがする流れだろ!」

マルコの顎を掴み上げると、彼は両手を上げて降参のポーズをした。俺はなんだかばからしくなってしまって、仰け反って笑った。マルコもどうでもよくなってしまったみたいで、鼻から小さく息を漏らすとたばこをくわえた。
俺の笑い声に反応したのだろうか、近くで人の動くような気配が一瞬止まる。そちらに意識を集中させると、ゆっくりと枯れた地面を踏みならす足音のようなものが聞こえる。煙草の煙が香った。マルコのものではない。彼はそれをくわえてはいるけれど、まだ火をつけてはいなかった。

「おいおい。人が汗水垂らして働いてる中おまえらはお遊びか?」

「サッチ」

姿の見えた男の名を呼ぶと、マルコもそちらに目を遣った。そろりそろりと俺たちの姿を探すみたいにゆっくり動いていたサッチは俺と目が合うと、わざと演技かかった仕草で木に寄りかかって両手を広げる。サッチが視線をマルコに向けると、彼はねだるみたいにくわえた煙草を唇で上下に動かした。サッチは嫌そうな顔をしたけれど、結局ポケットに手をつっこんでマッチをマルコに投げた。

「エース、オヤジが寂しがってたぜ?かわいい末っ子はここんとこまったく顔見せねえのに、見たくもねえ赤髪がやたら顔を出すってな」

俺は反応に困って苦笑いをした。サッチは肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。

「完璧とは言えねえが、床と屋根の整備が済んでる。マルコなんかとじゃれていないでおとなしく俺についてきなさい」

肩をあげて首をすぼめ、子猫にするみたいに指先でちょろちょろとおいでおいでをするサッチに目を細めれば、彼は上機嫌に笑った。




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